■新幹線の旅客減少対策とCO2低減策?(2021年11月7日)
昨年の春は、新コロナウイルスの特性が分からないこともあってか、都内の幹線道路や関東圏の高速道路を走る車が極端に少なかった時期があった。だが今はまた、以前の混雑が戻っていて、渋滞も増えている。むしろ、以前よりも少し混むようになっているかもしれないと感じる。宅配が増えたからだろうか。
昨日、関越高速道路を30分程度、走ってみたところ、トラックが非常に多いと感じた。前後左右をトラックに囲まれたこともあった。10年後は更にトラックと渋滞が増え、高速道路を自家用車で走ることが更に難しくなるのではないか、と思った。その合間を走りながらふと頭に浮かんだのは、電車による貨物輸送のことである。新コロナウイルスの影響で、新幹線も乗客が減っているなら、その分を貨物輸送に(戻)してはどうかと思ったのである。今後も、ネット会議は増える一方で、出張は減って新幹線利用は戻らない可能性もあるからだ。航空機でも旅客が減って、その分を貨物輸送に切り替えた航空会社もあるからである。
特に、レールとレールの間隔が広い新幹線の線路用として、「トラックを、そのまま乗せて運べる台座の車両」をつくれれば、と思った。その台座面は、その車両の車輪の中心軸より低くすることが可能かもしれない。その上に載せるトラックに車輪があるからだ。これと新幹線の姿勢制御技術を組み合わせれば、高速カーブでも安定な走行ができるのではないか。台座車両とトラックの二重サスペンションがあるので、振動も抑えやすくならないか。(積載重量の管理は必要だとは思うが)従来エンジンのトラックをコンテナのように考えて扱い、そのまま、線路で運ぶのである。エンジン付きのトラックを、電車の線路で移動させれば、(蓄電池の場合のような)航続距離の問題もない。エンジンを回さない分、CO2排出も減る。それではエンジンは不要、と思うかもしれないが、エンジンがついていれば、電車から降りた時、直ぐに最終目的地に移動できるので、納期の短縮にプラスである。荷物の上げ下ろしが不要だからだ。こうなると、高速走行は減るので、徐々にエンジンの小型化、燃料タンクの小型化も進むかもしれない。トラックと台座の車両を瞬時に安定接続・固定できるようなユニットが、トラックと台座車両に設置されることになるかもしれない。(電車のトンネル通過のために、トラックの荷台の大きさに制限があるかもしれないので、それは上下左右には狭くして、長さ方向に伸ばすようになっていくかもしれないが。)電車とエンジン自動車のハイブリッド化である。電動化は、自動車単体で考える必要はないのではないか。しかも、この台座の車両の開発・事業化は電車を造る企業だけでなく、自動車会社でもあり得る。電池の航続距離や価格の問題を解決するのにかかる年月よりも、短い期間で実用化できる可能性があるのではないか。既存のトラックをそのまま利用し、新幹線の既存技術でできると考えられるからだ。
トラックを運転される方も一緒に運べば、とも思う。できれば、夜中にトラックを長距離運転するよりも、寝る時間をつくってあげてはどうか。もちろん、コストの事等々、検討しないといけないことはいくつもあるだろうが、荷物の重量を考えれば運転される方の重さはごくわずかだろう。
最近は、荷物の配送データのコンピュータ管理も進んでいるし、貨物電車のスケジューリングも日々の貨物量に合わせて最適化しやすくなっているのではないか。都内の地下鉄の運行をみると、プラットホームに停止していた電車が発車すると、そのすぐ後ろに後続の電車がきているほど、過密な運行もみられ、車両群の管理技術が進んでいる、と感じる。自動車では自動運転化をアシストするために、渋滞データの管理・配信技術はかなり進歩しているように感じる。自動車一台一台の前後との時々刻々の車間距離と位置のビッグデータも、一元管理できつつあるだろう。電車と電車の間の距離の管理の方が圧倒的にデータが少ないので楽だと思うのだ。自動車は、走行車線の中央を走っているとは限らず、左右の車との距離も正確に知る必要があるが、電車の移動は線路に沿って一次元的であり、しかも、自動車ほどの台数はないからである。
私は、通勤に副都心線を利用している。この電車は、横浜みなとみらいから、渋谷、池袋を抜けて、西武池袋線・東武東上線等にまで乗り入れているものもある。逆に、所沢の方から西武池袋線できて池袋を経由して、そのまま、大手町の先にまで直通でいける車両もある。たくさんの路線が複合している中で、ときどき、人身事故や点検等で止まるのだが、1,2時間程で復旧することが結構ある。どこかが止まると、コンピュータで新たな時刻表をつくって直ぐに再運転できるようになっているのではないか、と考えてきた。事故や点検では、1時間以上、そこを復旧できないであろうはずなのに、である。つまり、問題か所の復旧後すぐに、電車群の流れが再運航できているのではないか、と思うのだ。踏切付近の短い複線部分で5分程度の間にトラックを荷台を持った電車車両に積んでから、本線に出る時間はごくわずかであり、従来の電車の運行スケジュールを乱すことはあまりないのではないか、と思うのだ。なので、過密な電車の運行もスムーズにできるのではないかと思う。
20年以上前に比べ、かさばる郵便物の配送日数・時間は格段に減ったと感じるからでもある。例えば、街の家電量販店に行って買うと、数日後の土日になるが、ネット購入すると翌日に商品が自宅に届くものもある時代だ。配送して下さっている方に少し申し訳ない気持ちになるときもある。なので、トラック+電車で、一日遅れても良いと思う人達や商品も多くなっているのではないか、と思うのだ。
トラックをどこで乗せるのか。新幹線なら、当面は操車場付近しかないかもしれないが、(今後10年程で)中期的に考えると、駅近くの都会で、使わなくなったビルの跡地かもしれない。自宅勤務が増え、都会のオフィスやデパートが減る可能性があるからだ。最近は、高速道路のインターチェンジの傍に、巨大な倉庫の建設が増えているが、新幹線の傍も考える時代になるかもしれない。新幹線以外の場所では、踏切付近が候補場所のひとつである。車と電車が交差する場所だからだ。もちろん、踏切近くのアスファルト面の拡大や、電車を短時間止めておくごく短い複線化等、少しは整備が必要にはなるかもしれないが。こうなれば、踏切付近で電車の車速を落とす頻度が増すので、自動車・人と電車の衝突事故も減るかもしれない。都会を抜けた自然の多い地域では、1時間に1本程度の電車しか通らない場所も多いだろうから、踏切での速度低下もしやすい。こうなれば、高速道路で、自家用車等の小さな車が走りやすくなる。
在来線と新幹線のレールの幅は異なっているが、両方の幅のレールを走れる車両も現存する(か、近々、実用化する予定らしい)ので、それを考えると更にやりやすくなるだろう。線路か車両に何等かの改良はしないとならないが、既に、20年以上前から、山形新幹線は、東北新幹線から在来線の線路にそのまま入っている。
夜中に、新幹線の線路で、トラックを輸送する際、何も、時速300㎞で走る必要はない。時速200㎞程度から100㎞程度での方が、騒音も小さくなるとともに安定走行ができ、高速道路のトラックの速度よりも早い。しかも、新幹線の線路の方が、高速道路よりも直線的で短いのではないか。であれば、速度も時速100㎞以下でもよいかもしれない。それでも、騒音問題は議論が必要になるが、私が山形で電車の線路の傍に住んでいた際の経験を書く。自動車道路の傍よりも、騒音が気にならない、という点だ。住宅地では車速を更に落としながら、そこを抜けたら時速200㎞とすればよいかもしれない。真夜中は避ける必要はあるかもしれない。こうなれば、高速道路の夜中の騒音は減る。
既存のトラックをそのまま利用し、新幹線の既存技術で数年後にできると思われるのだ。ヨーロッパか中国はこのことに既に気が付いているかもしれない。
昨年からインターネットで自宅勤務が増えているが、それに平行して様々な物品のネット購入も増え、宅配も増えているのではないか。このまま10年経つと、自家用車が高速道路を走りにくくなるか、と思う一日だったので考え始めたのだが、高速道路を降りるまでに上記の一連のことが頭に浮かんだのだ。
以前も書いたが、ストリートビューが進んでも、臭覚、触覚、味覚は使えない。人の移動が極端に減れば人間は退化するか、この社会の進歩が鈍るだろうと思っている。なので、自家用車での移動は、人間が呼吸するのと同じように必須なのである。
織田信長は、領地内を馬で駆けまわったらしい。人心を掌握するだけでなく、季節ごとの川の増水場所まで把握するためだったように思う。戦争になった際、雨でも確実に川を渡って攻め、逃げられるようにするためだ。様々な場所の川の深さを知るために、日常的に深いところも馬で渡るのでずぶ濡れになったのだろう。だから、ラフな服装と髪型をしていたのだと思うのだ。合理的である。そのことは、齋藤道三と正徳寺で会った際に正装したらしいことからわかる。義理の父親である道三に敬意を示すだけでなく、普段のラフな服装が合理的なものであること、つまり、「信長のやることは全て徹底した計算に裏打ちされたものであること」を道三に突きつけるためだったのだろう。無言の威圧である。それが、のちの躍進につながったと思うのだ。
車が行ける場所と範囲は電車よりも格段に広い。「現代の車は戦国時代の馬であること」を、再び、歴史から学ぶ、である。
更に考えると、多くの自転車を載せたトラックを電車の線路で運ぶことも増えるかもしれない。長距離の国内旅行は、各自の愛車である軽量自転車を近くのトラック運送会社にあづけてから、新幹線で寝ながら移動、になるのか。ヨーロッパでは、以前から自転車を電車に載せて移動するライフスタイルがある程度、浸透しているが、それもそこで先に進化していくかもしれない。自宅のPCでの仕事が増えると運動不足になりがちなので、上記が進めば、「街中も自転車」が増えるかもしれない。
航続距離の問題を考えると、トラックのBEV化は短距離用に限定されるのではないか、と考えてきている。燃料電池は高いので、荷物の配送料があがることを懸念している。
■「トラックと電車のハイブリッド」と「電池のみで駆動する自動車(BEV)」のどちらか2030年までのCO2排出量を減らせるか?(2021年11月9日)
上述した「 トラックと電車のハイブリッド 」は、直近のCO2低減に有効である可能性はある。エンジンを動力源とするトラックが出すCO2排出量は、「長距離」輸送部分を電車と合体すれば激減する。エンジンで移動するのは「短距離」部分だけだからだ。電車でトラックを輸送するために使う電力は増えるが、そもそも、電車はエネルギー回生しているのでそれほどでもないだろう。「ゴム製のタイヤとアスファルト路面の間の摩擦ロス」よりも「金属の電車の車輪とレールの間の摩擦ロス」の方が小さいのではないか。トラックだと信号やサービスエリア等で何度も停止してブレーキを踏むが、電車だと、始点と終点の間でノンストップも可能である。一方、仮に10年後までに新たに販売する自動車の全てをBEVにしたとしても、2030年時点で走っている車の多くはエンジンを持つ車であるのでCO2排出を多く減らすことは難しいだろう。新車販売台数は、その時点の保有台数のごく一部だからである。しかも、そのたくさんのBEVを生産するために電力を使う。2030年までに、フランスを含む数か国以外で電力が主に何でつくられるのかを考えるべきでもある。
「トラックと電車のハイブリッド」と「BEV」 のどちらが、2030年までのCO2削減に有効だろうか。
「トラックと電車のハイブリッド」の方がCO2排出量を低減しやすいと仮定して考えてみよう。実際にこのハイブリッドが大幅に増えたら、2030年以降、高価なBEV等を買うよりも、10~30万円くらいの軽量自転車か電動アシスト自転車も増える可能性がある。先に述べたように、トラックでの自転車輸送が増えると思うからだ。そうなれば、リチウムの資源枯渇の問題も回避しやすくなるし、運動不足も減って医療費も減らせるかもしれない。実際、若い層が車離れしていく気配も見受けられている。その若者達が2050年あたりに50歳を超えたところで、高価なBEVを買うかどうか、も考えないとならなくなっている。60歳は還暦といわれるが、最近は食材や医薬の充実で、定年と寿命がのびるほど、若いのである。その頃には、完全な自動操縦ができているかもしれないが、そもそも、電車には自分以外の運転手がいて、電車に乗る人は寝ていけるのであるから、その意味で、自動操縦の車と同じである。
その頃、一般車両の電車とプラットホームのフルフラット化等も更に進んでいるかもしれないので、そうなると更に電車は身近になる。
新コロナウイルス問題は結局、地方分散したいと思う気持ちを激増させたと思っている。この心の変化は、最近の新たな電気・情報技術よりも大きな影響を、今後の社会に与えたのではないだろうか。自然の中での生活はウイルス問題を回避しやすいだけでなく、人間の心を豊かにすることに多くの人がやっと気が付いた。しかもそこで、ネットで世界中のあらゆるものを買うことができることにも気が付いた。自然区域に住む人たちが、ときどき、都会に行きたくなったときは、軽量自転車か電動アシスト自転車をトラックにあずけ、電車でいって、都会でまた、その自転車に乗る。2050年頃、このライフスタイルがある程度、広がっていないだろうか。
日本は、自動車だけでなく、電車の技術力も高い。その2つの産業の技術力を融合させることによって、海外がマネできない新たな移動形態の大動脈が生まれ、日本独自のCO2削減ができる時なのかもしれない。そして、これには建築業界も関係する。CO2を減らす新たな列島改造にならないだろうか。
■トラックで輸送するものの総量は変わらないのに何故、渋滞?(2021年11月9日)
宅配が増えていると思うのは、私自身、昨年の春からネットで購入することが増えていることが根拠の一つである。でも、購入する総量は一昨年の同じ程度かむしろ少し減っているかもしれない。ネットで買ったか、家電量販店等で買ったか、という購入場所の違いでしかないかもしれない。なのに何故、トラック輸送が増えているようなのか。何故、高速道路を走るトラックが増えているようなのだろうか。
理由のひとつとして最近、感じたのは、宅配で購入したものの場合、商品が入った箱が非常に大きい場合が結構あることである。(壊れものではない)商品の2倍かそれ以上のサイズの箱で到着したものもあった。単純計算だが、サイズが2倍だと体積は8倍になる。家電量販店のような場所での売買が主であれば、工場から店に運ぶとき、同じ商品を大量にトラックに積むので、割れず壊れないようにする梱包の箱の大きさやクッション材は最小限にしやすいが、ネット売買では、バラバラの商品なので、その梱包はどうしても過剰になりがちなのではないか。商品が多様なのに、容易できる箱やクッション材のサイズは限定されるだろうからだ。なので、かさばるので、トラックの台数が増えているのではないか。
トラックの台数が増えているのであれば、ドライバー不足も起きえる。
トラックと電車のハイブリッドよりも先にやるべきことがあるのかもしれない。ただ、この荷物がかさばって一台のトラックに載せた総重量が減ってきているのであれば、電車にのせて運ぶ際、その走行安定度は増すのかもしれない。トラックの総重量だけでなく、トラックの荷台の3次元的な重量分布データも必要になるか、とも思う。(これは、荷物を載せたトラックの車速、加速度、とともに、荷台面の水平からのずれの時間変化、各タイヤのサスペンションの動き、のデータを測ることである程度わかるかもしれない。)
■青春(2021年11月12日)
サミュエル・ウルマンの詩に、「青春」というのがある。青春とはある年齢の時期のことではなく、心のありよう、だという詩である。
「今後、従来技術の何が消えていくか?」というような意識・問いかけは、青春的ではないと思ってきている。若い人達の心をさらに若々しい気持ちにさせるために、私は「従来技術の何を活かし、そこにどのような独自性・新規性を入れていくのか?」と話してきている。
そもそも、どのような新しい科学技術でも、それまでの先人のなした土台なしでできるものは皆無と言って良いだろう。どんなに優秀で独創的な成果を出した人でも、本をよんだり、授業をうけたことがない人はごくわずかなはずである。先人に感謝し、古き技術を生かして古きを超えながら、新たなものを生むのである。人間は自分一人だけでは生まれない。
今後も電池は増えていくと思われるが、材料が変わっていけば、それまでの電池は生産されなくなって、その意味では「消えていく」だろう。多くの産業で多用されてきたエンジンも、その燃料が徐々に変わっていくとともに、その形態が変わっていくはずである。
「人類」と呼ばれる知能のある生命体が急増したのは、「火」の利用を見つけたことが大きな原動力だろう。「焚火」である。米国の研究チームは、数十年前に開発したエンジンシミュレーションプログラムに「KIVA」という名を付けた。これは「暖炉、焚火」を意味するようである。「エンジンは人類を更に発展させるための第二の焚火」だと言いたかったのであろう。これだけ長い年月、人類とともに歩んできたエンジンはこれからも発展しながら、宇宙を含む世界を闊歩すると私も考えている。
■カーシェアは広がるか?(2021年11月12日)
HEVが市場に出てきてから、次はBEVかFCVのどちらが増えるか、と考え、充電場所が豊富な電池の方が有利だろうと思ってきた。ただし、電池の航続距離や値段等々の問題を考えると、エンジンの大幅断熱+排熱低減、の方が、より多くの人達にとってプラスだ、と考えていた時、大学で仕事をする機会を得た。
それ以後、個人的にBEVをレンタルしたり、カーシェアも利用してきた。ただ、夏場に借りたBEVは渋滞に巻き込まれてエアコンを止める羽目になった。電池は平均寿命で考えるわけにはいかず、最も悪い個体で判断しないとならないことを強く感じた。カーシェアは返す時間が気になる事、車内に忘れ物をした場合のことが不安で落ち着かないこと、急に車が必要になった時に借りれないことがあること、他のユーザーが使った後に清掃されていない時があること等もあり、結局、再び、マイカーを購入した。私よりも少し年上の知り合いと話していたら、歳を取って親を急に医者に連れて行く行くことが増えたので、マイカーはやはり必須と言われていたことも思い出す。なので、まだまだ、カーシェアが大部分になるとは考えにくい。カーシェアを増やすためには、急に利用したくなったときに借りれるようにする必要があり、その為には、余分に車が必要で、それはレンタル料があがることを意味するだろう。それがBEVだと一体、いくらになるのだろうか。
ふと、もうひとつ、その可能性の是非を考えてみるのに良い「電気・電子化」の事例を思いついた。最近のレンズ交換式デジタルカメラは10万円を超えるものが増え、交換レンズを加えると100万円レベルになるものが結構でてきている事実である。こんなに価格が高くなってきて車の価格に近づいてきている。だが、デジカメのレンタル・シェアに参加する人は多くないはずだ。借りる数日前にネットで予約するのでは、雨あがりの晴れた日の朝、急に使いたくなったのに使えない。10万円程度のデジカメ付きのスマホでも、レンタル・シェアなんてことはありえないだろう。
車やカメラを所有したいという人間の本能は強いのではないか。それは欲望というより、人間が自由を得るために欠かせないものであり、それが愛情を育み、脳をリフレッシュさせて、社会をよりよくするための原動力を生むと考えている。
カーシェアが拡大するとすれば、それは、車の利用頻度が大きく減って、自動車が補助的な手段になるときだろう。先に述べたように、自転車+電車が主となるような場合だ。そうなると、自動車(BEV)自体の生産量も減ることになるので、拡大という言葉は適切ではないだろう。ただ、電車が少ない自然区域では、一家に2台の自動車、というところも多いことを考えると、20年後に車の利用が減るという印象を私は持てていない。私が山形に5年間住んだときの実感である。なので、カーシェアでBEVが普及、というシナリオは考えにくいのだ。
CO2低減の観点から、あるべき論を考えるのであれば、今まで書いてきたようにまず、直近の10年間にいくつかやるべきことがあるだろうと私は考えている。もちろん、22世紀に向けた提案も特許等で提示している。
以前記したが、デジタルカメラは、カメラが本来持つべき最も重要な機能に合致しているので普及した。撮影した人が、撮った写真を直ぐにただで見れることだ。電子データで、他人と簡単に写真を共有できるようになったことは二次的な理由だろう。一方、自動車の多くをBEV化できるかどうかについては世の中の意見が二分している。COP会議で、BEVに賛同した国々の人口と、賛同しなかった国々の総人口のどちらが多かったかも確認してみるべきだろう。確実な移動、という必須要求に対してまだまだ疑問がありそうなことがその理由のひとつだと思う。現時点での私の考えだが、今後のCOP会議では「BEVだけという案」への賛同者は減り、「BEV+FCV+低炭素燃料エンジンの案」になっていくと考えている。それでももし、BEVだけ、に賛同者が増えるとしたら、貧富の差が更に拡大する等、マイナス面が多い結果を生むと思っている。
意見が二分、ということは、やはり、数十年後の新車BEV化も最大で半分程度まで、なのかもしれない。
■空飛ぶ自動車のCO2排出(2021年11月13日)
電池とモーターを使って人も運べる大型ドローンや、それに加えて、自動車のものよりもCO2を出すだろうエンジン等を載せた「空飛ぶ自動車」の案が出てきているようだ。(空中でのホバーリンゴと地上でのアイドリングのエネルギー消費量を考えただけでもわかるだろう。)これらは、自宅付近から飛行場(や新幹線の駅)までの渋滞を避けて短時間で到着できる。お金に余裕のある人には魅力的かもしれないが、そもそも、地上の渋滞を緩和して、従来の車で短時間で行くことをあきらめたのだろうか、と思う。地上の渋滞を減らさずに、新たな「空飛ぶ車」が増えると、更にCO2を出すことになるのではないのか?そもそも、EUでは短距離の航空路線はやめる方向ではないか。それと逆行しているように感じる。
垂直離着陸できるドローンや「空飛ぶ自動車」が地上の自宅付近に到着した際、道路に下りれば、そこで更に渋滞を引き起こすだろう。人類はどこに向かっているのだろうか?
空飛ぶ自動車、を提示するのであれば、それがCO2を減らすということも同時に示す必要があると思っている。
■日本の5社が水素等の低炭素燃料エンジンを研究開発する?(2021年11月13日)
今日のネットに、日本の自動車・バイク等の企業5社が共同で、水素等の燃料を用いたエンジンの研究開発を促進するという記事が、ようやくでてきた。
ここまででてくれば、ようやく、数年後の世界の姿が明確に見えた気がする。私が、昨年「少なくとも、数年間は仕事の方向を変えない」と言ってきたが、「十年は変えない」で良いはずだ。CO2を減らしながら人類を豊かにしていくのは「熱効率60%超を目指し、低炭素燃料にも向いたエンジン」だ、という予測である。世界があるべき姿にもどりつつあると思う一日だった。
なかなか、独自の生命医学と人工天才脳の探究に重心を移せない。
■もう一人の恩師(2021年11月13日)
そろそろ、また、もう一人の恩師の命日がくる。直観の鋭い先生だった。秋が深まりつつあるこの頃は土日に仕事が入ることが増えるのだが、そのたびに恩師を思い出す。恩師が他界された日も大学での仕事が入っていたが、他の先生に代わっていただいて、駆け付けたことを思い出す。
大切なことは、肩書等の表面ではなく仕事の中身、と言われた先生である。中身に専念すれば肩書は自然と後からついてくる、という意味も含んでいる。
■カーシェアは広がるか?(その2)(2021年11月15日)
12日に書いたことの続きを書く。
自然の豊かな地域では、比較的短距離の移動も多いので、2台の内の1台は、軽のBEVはあり得るだろう。だが、もう一台も、2030年までに、冬場も長距離も安心して走れる車もBEVになるか??である。現在、世界の人達の考えは二分しているので「数十年後、BEVは半分まで」と書いたが、これはそういう理由でもある。
都会では、エンジン駆動のトラックと電車のハイブリッド+自転車が増えれば、車は減るが、カーシェアのBEVの割合は増えるかもしれない。だが、自分の前に乗った人の乗り方がわからず、しかも、平日と土日の利用量が変動するかもしれない電池のEVを乗った際、ごくまれにおきるかもしれない急な電池残量の低下を、私は懸念している。しばらく使用しなかった電池の劣化は、私自身、携帯電話で経験しているからだ。
デジカメの電池は急に切れても、命の問題にはならないが、車では、冬場や病院に行く際等、そうはいかない時がある。
私が書いた本の最後の「おわりに」に、「2040年頃に、BEVのシェアは30%程度までだろう」と書いた。これは、大幅断熱+低騒音型高圧縮比での排熱低減エンジン(Fugine)か、放射線を出さない弱い核反応リアクタ(Fusine)が実用化すれば、BEVのシェアは10%程度、実用化できなかったら従来型エンジンのHEVが50%、という予測であり、その中間値として30%程度まで、と記載してきているのである。
固体電池の実用化が見え、航続距離の問題は減っても、リチウムイオンよりも更に値段があがるのではないか、と懸念している。
次世代ソーラーパネルをBEVに搭載、で航続距離UP、も考えてきたが、私の中ではまだ、??である。
■今日の朝刊(2021年11月16日)
今日の朝刊に、電池に関して一昨年、ノーベル賞を受賞した人が、ようやく、「やはり、再生可能エネルギーだけで、日本の電力を100%まかなうことは難しい。30,40%くらいが合理的・・・。水素・・・」という記載を出された。これは、三年程前に私が本に書いた「BEVは3分の1くらいまで」ということに符合する。LCAで考えると、原子力・再生可能エネルギの部分は、BEVに利用すればCO2増加しにくいが、それ以外のエネルギーではまだまだ、自動車用電池の製造で出るCO2が問題になり、しかも、価格・資源枯渇・劣化・航続距離問題等々と心理的に切り離せないだろうからだ。これは日本だけに限らず、世界中の多くの国、大多数の人にとって同じはずである。
なお、「環境への意識が低いのは子供よりも大人の方」というような記載もあった。朝刊の紙面は限られているので、その後に記載するべきことを書けなかったのだろうと思うので、以下に私が追記しておく。「環境(温暖化、気象変動の悪化等)問題への意識を持ち、その意識の必要性を社会に発信するだけでなく、それを具体的に解決する技術・案、を提示していくことが大変重要であり、そのために若い人達は、先人から基礎的な知識を学び、それを知恵にしていく努力をすべきである。それでようやく、あるべき姿の大人になれる。」ということである。ノーベル賞を取られたこの方が評価された第一の理由も、問題意識を社会に発信したことではなく、社会に貢献する具体的技術、であろう。その努力を継続することこそが重要なのである。各種エンジンの研究開発者は過去、何十年も、HEV化も含めて脱炭素化に多大な努力と貢献をしてきたが、それでも不足していると考えられ、再生可能エネルギーと電池で対応できる部分はまだ、3分の1まででしかないからである。なお、長期的な視点からの科学的研究成果も、具体的な解決のヒントを生むことが結構あることを付記しておく。
「子供の方が意識が高い」という言葉だけでは、多くの若者が勘違いする危険がある。その先の「具体的な技術・案の提案」という重要事項に気が付くのに遅れる危険が増すという意味である。それはそれこそ、次世代にマイナス、につながるのである。以前も書いたが、私の様な年配者よりも、今後、長く生きていく若者が、未来の環境を強く意識するのは当然のこと、でしかない。 「環境への意識が低いのは子供よりも大人」 なのは、寿命を持つ生命の自然な姿なのである。
ちなみに私が小学生だった頃、つまり、50年ほど前、毎日、読み切れないほどの分厚い新聞を手にしながら、周囲に「このままでは、樹木が減って環境問題になるのではないか」と話していたことを思い出す。そしてその後、大学を出た後の仕事のひとつは、「脱炭素」の為のエンジンであり続けている。それは「脱炭素問題と無縁な、宇宙という大海原・新天地に容易に行くエンジン」にもなりえるからだ。22世紀になっても電池だけで宇宙には行けないと私は考えてきたからである。
一年程前、新コロナウイルスのため、学生に寄り添って伝える機会が減り、また、その頃、BEVと再生可能エネルギーへの過剰と思える情報が増えたため、過度に落ち着かなくなる学生も増えるか、と思い、私の考え方をこのHPで説明してきた。だが、環境・動力エネルギー対策が、あるべき方向に進むという記事も回復し、新コロナウイルスへの対処も進みつつあり、教場や廊下で若者にあうという状況も回復しつつある。なのでやっと、今後、この欄への記載も一旦、減らせるくらいまでになったか、と思い始めている。
■ハイブリッドなデジタルカメラ(2021年12月19日)
スマホが普及した理由のひとつは、「電話機能+パソコン機能+デジカメ」という「多機能のハイブリッドシステム」であることだろう。一方、自動車のハイブリッドシステム(HEV)は「エンジン+電池」であり、これも今後も更に普及していくだろう。
撮影機能のみの高額なデジタルカメラ(ミラーレスを含む一眼)もある。35㎜以上の大きな画像素子で3000万画素を超え、高価な明るい交換レンズ群を購入すると、総額で100万円を超えるものも増えている。これは自動車で言えば、電池のみのBEVに相当すると考えてみることができる。ハイブリッドシステムではなく、しかも、高価という点で共通だからである。これらは、多くの人が買う、というものにはなっていない。
なので、ごく一部の人しか買えない高価なBEVは、しばらくすると、やはり、最大で30%あたりまでで一旦、台数が頭打ちになるのではないか、と思う昨今である。(補足:最近、T社が350万台のBEV目標、と述べたが、これはT社の現在のシェアの35%という意味である。ただし、BEVをHEVやエンジン車に上乗せしようと考えていれば、シェアの25%を意味する。2年前からT社は、他の自動車メーカ数社と連合を組んでBEVにも力を入れ始めており、T社の基本姿勢・計画・目標に大きな変更は感じられない。)
その頭打ちの時期は2030年あたりではないか。そして、それまでにまた、BEVメーカの淘汰がある。その後、「資源枯渇の心配がなく、固体電池を超える航続距離で低価格、かつ、使用の仕方によらずに劣化しない軽い電池」が出るかどうかで、BEVが更に再度、加速するかどうかが決まるだろう。その未知の電池が出てくれば、2040年代以降に再加速するかもしれない。なお、その電池が出てくるかどうか、を私が予測しにくい理由の一つは「電池はセレンディピティ―という言葉が時折、使われる化学の世界」だからだ。この未知の電池がまだ見つかっていない、と思うのは、電池の研究者が「自動車業界全体がBEVに進まないことを憂えている」からでもある。圧倒的に有望な次世代電池の研究が進んでいれば、自信を持って静かに進めるだろうと思うからだ。
ここ数年間、BEVの報道が盛んなのは、それが過半数になりうるからではなく、仮にシェアが10%でも、(自動車以外の)他の産業と同等か、それ以上に大きいからだろうと私は考えているのである。
なので、物理学(力学)の理論に土台を置いて先読みしやすい「万能用途の超高効率エンジンとその進化型(放射線を出さない原子力エンジン)」の研究開発を加速している。
補足しておくが、私は「セレンディピティ」という言葉も、軽くではあるが頭に置いてきている。物理学で先読みをしながら、常識にとらわれず、多くの分野の謎解き研究に関わっていると、一見無関係な現象群の相似性に「偶然」気が付くことも増えているからである。
■レベル4の自動操縦車(2021年12月24日)
今朝の新聞に、レベル4の車(過疎地の無人運転バス)が2022年あたりから登場するかもしれない、という記事が出ていた。私が「生命のエンジン(2006年発刊)」に、「2035年あたりに、お酒を飲んでも自動操縦で帰れる自家用車がでるのではないか」と書いたわけだが、この無人運転バスが成功すれば、2030年あたりから自家用車でも普及するのかもしれない。
昨日(12月23日)のネットに、「トラック輸送をやりにくくなる部分が増えるため、JR貨物での輸送を増やす」という記事が掲載されていた。11月はじめに私が記した案 (トラックと電車のハイブリッド) が更に進むかもしれない。
今のところ、先読みはあっているようである。
■3年生を激励(2021年12月24日)
現在の3年生は、昨年度は全ての講義がオンラインになり、今年度もほとんど、教場で会うことができなかった。なので、2年間、窮屈な生活だっただろうと思う。ただ、実験の諮問等で数回だけだが会う機会があり、そのとき、その健闘を称える気持ちで近寄って、「私に会いたかった?」と話かけてみた。普通、この問をするのには少し、勇気がいる。誰もうなずいてくれなければ、普通は少し寂しい気持ちになるからだ。実際、明確な反応は稀だった。だが私は、更に「会いたくなかった?」とも話かけてみた。「会いたくなかった!」と言うくらい元気のある学生がいるかどうかを確認するため、というのが理由のひとつであるが他にもある。
この問いかけに戸惑う学生が多いはずだとわかっていて話しかけている。では何故、この問を投げてみたのか。それは、何年か先の就職活動時や就職後に、似たような問いかけをされることがそこそこあるからなのである。会う事の重要性を再確認して欲しかったからでもある。ネットを通じた粗い映像では、相手の心の機微はわからないことも多い。それでは、結局、お互いにとってプラスにはならないことを伝えたかったのだ。
このような問は私が学生時代に読んだ歴史小説にも出てきた。齋藤道三が織田信長に「正徳寺で会いたい」といった場面(人生を完全燃焼する方法に記載)もそのひとつだ。この会見で道三は、信長を生かすか殺すか判断しようとしたと書かれている。私の人生でも、似たような問いかけ(自分の将来を大きく左右する問いかけ)が来るかもしれない、と感じた。私の就活が始まった頃、たまたま、ある企業の本社の人事の方とお会いしてやりとりした際、「研究所見学に行くための交通費はどうしましょうか?」と問われたとき、「来たぞ」と思った。即座に「自分で払います」と笑顔で答えた。その直後に、その人事の方はニコリとして、懐からチケットを出して私に渡された。問われたのは「交通費」ではなく「その企業への私の思い」だったのである。もっとはっきり言えば、「私がその見学を通じて会う人達と一緒に仕事をしていきたい気持ちがどの程度あるか」を事前確認されたのである。見学するものは技術でも、そこで、その技術開発の経緯や将来性を説明してくれるのは人であり、技術を生み出すのは人である。なので、この企業の研究所を見学した直後、私はその所長との楽しい面談の時間までいただいたのだった。問いかけに笑顔で答えたことが重要だったと考えている。(注:自分から先に「交通費は不要」というのは良くない場合もあるから注意が必要である。)
歴史小説の話を含む先生とのやりとりは、「就活以降に投げかけられる社会からの厳しい試問」の前に投与しておくべきワクチンのようなものだと考えればよいだろう。
ところで、私が投げかけた「会いたかった?会いたくなかった?」の問に対する正解(回答例)は何だったのだろうか。それは研究室配属までの宿題としておこう。3月末の再会を心待ちにしている。
■3年生の実験での諮問(2021年12月25日)
私の所属する学科では、私が学生の頃から、3年生の実験直後に何度か諮問がある。私は2つの諮問をされ、2つとも答えられなかったが、それで不安になることも、なさけなくなることもなかった。諮問の内容は教科書等にはでていないものだったので、得をしたと思った。なお、名誉挽回のために補足すると、実験以外の科目で問いかけられた際、一度、正解を答えたこともある。不思議なもので、答えられなかった事項は今でもよく覚えているが、正解した内容は全く、覚えていない。
若い時にうまくできなかったことを、その後にどう生かすかが重要だ、ということである。
■今朝の新聞(2021年12月27日)
数か月前から知られていた情報ではあるが、石炭利用を増やしにくくなるため、欧州では天然ガスの価格が上昇し、最近の1年間で5倍を超えたようである。BEVが増えることもあってか、アルミの価格も上がっているようである。脱炭素の「掛け声」が強すぎで、それがインフレ要因になっているように私は感じている。
BEVだけで脱炭素は困難なわけだが、以前も書いたように、水素エンジン・水素FCVよりも、BEVの方がエネルギー(電力)供給場所の利便性で勝るので、ある程度(30%程度)までは先に進むとみてきた。ただし、これは、民間努力だけでは進みにくく、社会全体を考える組織が「声をあげる」ことも、ある程度、必要だとも思ってきている。だが同時に、具体的な技術革新に基づく短期・中期・長期計画をみせる必要があるとも考えてきた。単純に言えば、風車や太陽電池の処分問題や建てかえ費用問題も含めて、50年以上に渡り、80%程度以上を自然エネルギーにできる見通しが立って、それを示し、進めながらの「掛け声」であるべきだ、というのが私の考えである。
50年程前、「日本列島改造論」という「掛け声」が提示され、それは結局、その後の日本の発展に大きな価値をもたらした。50年間の積分値でみれば、これはあるべき方向であっただろうし、これ以外に進むべき大きな政治的指針はなかっただろう。だが同時に、土地の価格の高騰をまねき、地方分散はすすまず、地方の過疎化は止められなかったことを思い出す。
なので、やはり、「令和のカンブリア紀(2021年2月7日のつぶやきを参照)」に生きている私達にとって重要なことは、科学技術の中身に没頭しながらも、実のある経済学も意識する必要があるだろう。私のところで進めている「経済のエンジン」の探究もそろそろ加速すべきかもしれない。
■三国志(2022年1月15日)
以前、このHPの「人生を完全燃焼する方法」のところで、歴史に学ぶ、ということを書いた。その一例として、三国志について少し記した。諸葛孔明という素晴らしい参謀がいた蜀が、何故、魏に負けたのか、という問題である。これについての一つの解答例は、私が15年ほど前に書いた「生命のエンジン」の最後の方に記している。3つの国の志の違いが、その答だ。三国志は、三国史、ではない。題名の中に既に答はある。魏は、新たな大きな挑戦、を志としたらしく、これに多くの若者達が魅かれて集まったということである。一方、蜀は「漢の復興」を目指したとされる。復興、という言葉よりも、新たな挑戦、という言葉に多くの若者が魅かれるということだろう。これは現代にも通じる教えで、学生達が、星の数ほどある選択肢の中から就職先を選ぶ際のひとつの指針になるだろうと思ってきた。
ただ、私がその後、気が付いたことを書いておく。三国志が言いたいことは、魏と蜀の両方の良い点を合わせ持ったらもっと強い、ということではないか。諸葛孔明が行ったことやその構え方は、その後の長い年月を経て私達に伝わり、影響を与え続けており、その点で、大きな貢献をしていると思うからである。
勝敗は、数十年程度を生きる人間によって判断されるものではなく、数百年を超える長い時間が裁く、ということだろう。なので当然、私の研究室は、この2つの旗印(新たな挑戦と久遠の理想)を掲げている。
■直江兼続の「愛」の旗印に学ぶ(2022年1月16日)
戦国時代、直江兼続は、その旗印として「愛」を掲げた。切り合いばかりの時代にあえて、である。兼続の思いを現代人が実感するのは難しいか、とは思うが、「愛」を旗印にあげてきたと感じられる企業が、この50年程の間にいくつもあったと感じている。一つは、カメラ産業だ。私のごく近くでカメラ産業を発展させてきた実業家は「カメラは、家族・恋人・友人と共有した時間と場所を写真の形で残す。そして人はその写真を見ることで、愛を育む。この意味で大きな価値がある。」と言っていた。WALKMANは「愛という言葉に満ち溢れた音楽で、各人の心に愛を積み増すもの」だと考えてきた。スマホはこれらが合体した進化形である。自動車も、移動を容易・確実にさせることで、「家族・友人・恋人と会えるようにし、プレゼント等を届け、互いの愛を育むもの」だと思ってきた。
なので、日本のカメラ・複写機・動画・音楽・携帯電話・自動車産業が、この50年以上の間に大きく成長したのは、「愛を育む」という旗印に人々が共鳴したからに他ならない、だろう。先人たちのこのVISIONを忘れてはならないと思うのだ。
ゲームには、愛を育むのとは違う印象のものが結構ある。なので最近、ある企業が、自動車の再定義の旗印は「エンタメ」と言っているが、それは自動車産業レベルの規模にはなりにくいと、私は思っている。エンタメを満喫するための移動空間、ならあり得るかもしれないが、それでも自動車の旗印はこれからも、「移動」が主であり続けると思っている。自動車だけでなく、そもそも人間は動物であり、文字通り、動くことを前提としていることもその理由のひとつだ。「移動」は「愛を育む」ことと同じレベルで、本質的に人間に必須のことだろう。ただし、今後、自動車を「家」に近いものとして再定義していくのであれば、それはありえるかもしれない。「家」は「愛を育むもの」だからだ。それでも、自動車は、動かない「家」そのものにはなれないだろう。人間が家の中で動くことができる点を忘れてはならないのかもしれない。
以前、このつぶやき・ささやきに2つのカンブリア紀について書いた。最初のカンブリア紀に生まれた「目をもつ生命体」の群は、その目から入る膨大な画像情報に翻弄され、自分を守る「殻」に閉じこもり、「動きの少ない」甲殻類が増えた。だが、その後、表面が柔らかで他者との接触と愛情を重視し、動きやすい構造の哺乳類が増え、私達の繁栄が生まれている。
インターネット、デジタル画像素子、パソコン等の情報技術の進歩によって情報過多になったモニターの前で、現代人は釘付けになっている。しかも、私達は更に新コロナウイルスで、自宅の「殻」に閉じこもることを余儀なくされている。この「二度目のカンブリア紀」に生きている私達は、今こそ、最も重要なことを直江兼続から学ぶべきであろう。
やらなければならないことは脱炭素ではなく、温暖化・気象変動問題の対策である。これを考えて進めていくのは、「異常気象で山火事や洪水等が増え、各自の愛する人達がその被害を受けること」を減らすためなのである。
■「おだい」に学ぶ(2022年1月16日)
山岡荘八の書いた「徳川家康」は26巻もある。私が子供の頃から、この本がリビングに並べてあったのだが、大学3年の頃、ふとしたきっかけで手にしてから引き込まれていった。小さな国の大名家にうまれ、戦国の荒波にもまれながら、家康の母となる「おだい」のことから話は始まる。身ごもった「おだい」は「この世を争いのない世界にする子をさずけて欲しい」と祈りながら、苦行を繰り返す場面で始まるのだ。戦国時代に、若くして命を落とすかもしれない子供を産み・育てることで、血まみれの世界を一掃しようとする勇気・愛情・祈りの激しさに打ちのめされた。
私が大学生の頃は既に、高度経済成長の終わりを感じる時代で、自分の将来に大きな不安をいだいていた。そんな気持ちでいたところで、この本を読み始めた時、おだいに「あまえてるんじゃない」と叱られた気がしたのだった。「日本が更に発展する具体的な案を提示していきなさい」と言われた気がしたのである。(この本は26巻もあって長く、1月は定期試験等の勉学に集中すべきなので、読みたい人は春休みになってから読むように!)
私が学生時代にいだいた不安は、数年後にはバブル崩壊として現れ、的中してしまう。現在の学生達は、脱炭素や新コロナウイルス等で大きな不安を抱えているのではないか、と思うことも多いが、それは私が学生だった頃から既に始まっていた。つまり、私の世代と現在の学生達は同じ時代にいると思っている。
なので、一緒に考えていきましょう!
■粒子世界のモデリング(2022年1月19日)
ミリメートルあたりからキロメートルのあたりまでのスケールでは、連続体として近似することが結構なされ、使われている。熱力学・流体力学・材料力学がその例だ。これらの多くはは、偏微分方程式で記述される。
だが、私達の世界は、素粒子から天体までの様々なスケールにおいて、全て、粒子で成り立っている。なので、粒子モデルで近似して利用しようとする研究者も数十年以上前から存在する。この場合のほとんどは、連立常微分方程式で記述される。ニュートンの運動方程式、分子力学、渦糸法、SPH法等がその例である。
だがなかなか、この粒子モデルは連続体近似モデルの領域を浸食することにはなってきていない。理由は2つある。1つめは、いくら、多数の粒子でモデル化しても、その中のひとつひとつの粒子が分裂する過程をモデル化することはあまりなされてきていないためである。なので私の研究室では、粒子の分裂・合体モデル(Cyto-fluid dynamic theory, Gourdron theory等)を提示してきた。2つめは、粒子数が多くなると計算時間が急増してしまうためである。
ただし、粒子モデルには良い点もあるので、私は、連続体近似モデルに近い形の「半粒子」モデルのカテゴリーでも多くの成果を出してきている。
■最新の成果発表(2022年1月21日)
来週1月25日-27日に、私も運営に関わっている国際講演会(ISAROB27,ISBC7,SWARM5)で、私の研究室から、 最新の乱流理論+数値解析・Fugine・量子流体力学・生命基礎医学・経済変動理論・新コロナウイルス現象の分析 について6つの成果を発表予定である。オンラインで実施される。興味のある方は、Regstrationして参加いただければ幸いである。
AROB-ISBC-SWARM 2022, International Symposium on Artificial Life and Robotics (isarob.org)
■人生を完全燃焼する方法に追記(2022年1月30日)
2月になると梅が咲き、春の気配を感じさせる時期になるが、1月はまだ夜が長く、一般的に気持ちが沈みがちになると思う。先日、ある人から「やるべきことに集中できないで困っている」という相談を受けた。なので、「人生を完全燃焼する方法」の最後に、私の「集中できないときに集中できるようにする方策」を追記した。
■「トラックを電車で輸送」が始まる(2022年2月7日)
3か月前、この「つぶやき・ささやき」に「トラックを電車で輸送すれば、大きなCO2削減効果が期待できる」と書いた。それが実際に始まるという記事が今朝の新聞に記載された。まずは、新たに製造されたトラックの電車での輸送だが、私の先読みが的中しつつあると感じている。
新コロナウイルスがまた、蔓延してきている昨今、電車による人の移動が元に戻る気配が感じられない。しかも、電車でのトラック輸送はCO2削減に即効性がある。進まないはずはないと思っている。
■ノッキングしにくい特性(2022年2月7日)
燃焼室壁面からの伝熱損失量を大幅に低減する「ほぼ完全な断熱」の可能性について、2017年頃、米国自動車技術会の論文等で公開した。昨年末の内燃機関シンポジウムで、私の研究室は、もうひとつの重要な成果を発表した。多重衝突パルス噴流圧縮を用いた我々のエンジンはノッキングしにくいこと、である。ノッキングしにくいということは、その分、従来エンジンよりも圧縮比を上げて、排熱低減できる可能性が生まれるからである。
■N社の報道記事に関する私見(2022年2月8日)
今朝の新聞に、N社がエンジン単体車の開発を減速するという記事があった。ただし、HEV用のエンジンの開発は今後も進めるとのことであり、当面、エンジン関連の技術者を積極的に減らすことはないようだ。地域によってはニーズに応じて、エンジン単体車を開発・提供することもあり得るようである。この発表をしたのは、シリーズHEVだけになった新型車の販売がある程度、期待どおりであることが背景にあるだろう。特色のあるシリーズHEVがそこそこ以上受け入れられたことにより、当面、そのHEVが市場で拡大するという確証を得たのではないか。その気持ちの余裕?がこの発表につながったのではないか、と私は受け止めている。現時点ではまだ、N社もT社も、「世界全体でみると数十年間はHEVが主で、その中のエンジン改良も重要」という考え方だと思っている。
N社は10年以上前、後続距離は短いが、量産型BEVを市場投入した。その狙いは2つあると私は考えてきた。一つ目は、日本のユーザーのかなりの割合が100㎞以下の使用が多いことを起点として、BEV市場拡大の可能性がどの程度かを確認するためである。二つ目は、まず、HEVよりシステムが単純なBEVを市場投入し、ある程度の台数を売って、シリーズHEV用にもなるリチウム電池の安全性・信頼性技術を確立し、問題がないことをしっかり確認してから、エンジンを追加してHEVを出すためである。
欧州では最近、一見するとBEVを加速しようとする動きが活発だが、N社と同じように、システムが単純なBEVをある程度、市場に出し、電池の信頼性技術を確立させながら、HEVやPHEVを今まで以上に積極的に出してくる可能性もある、と思っている。欧州は広く、日本よりもロングドライブすることが多いので、もともと、燃費の良いディーゼルエンジン車が多かった。なので、5年程前からEUの大都市へのエンジン車乗り入れ規制が段階的に進んできているものの、最近の欧州でのBEVシフト発言には、直観的にかなりの違和感を抱いてきた。実際、ごく最近の欧州での自動車販売をみると、HEV、PHEVが急増している。高級車を買ってきた一部の人を除くと、バカンス重視や仕事でロングドライブを必須とする人はHEV・PHEVを選ぶが、街中とその近隣での生活を主にエンジョイする戸建住宅保有の人はBEVという苦渋の選択になっているかもしれない。今後、BEVを購入した人がHEVに戻る可能性もあるだろう。現時点ではHEVの選択肢が少ないからでもある。電池が更に進歩すればBEVの魅力が増すだけではなく、HEVの価格も更に下がってくるはずだからでもある。PHEVであれば、街までの数十㎞を電池だけで走行でき、バカンスにも安心して行けるだろう。
欧州以外ではHEVが数十年に渡って増加することはかなり確実だろう。欧州の自動車メーカも、今後10年間のHEV需要拡大を見逃すわけにはいかないだろうし、仮に欧州でHEV販売が禁止になっても、HEVを確立した後(5年後以降)、それでアフリカ市場を狙う可能性も感じる。欧州とアフリカは隣接しているからだ。私の推測だが、エンジン単体車についても、中国と欧州が協力してアフリカ市場を目指す時代になる可能性も感じられる。三者は地続きだからである。中国が「一帯一路」と呼んでいる構想は、このことも含んでいるのではないか。日本は、列島改造構想から50年、今、何かを出せるのか。
今後、中東の産油国は、自動車エンジン用化石燃料の輸出をしにくくなることについて、どのような対処を考えているのだろうか、とも思う。ガソリン価格をあげるだけでなく、地域によっては、逆に、継続的に安くして、より多く売って、水素に変換する際に出るCO2を地下に埋めるためのコストを打ち消すようなことも、ありえるのだろうか。化石燃料はまだまだ、地下に存在すると思うからである。
新聞報道をみていると、T社は、HEV・FCV・BEV・ガソリンエンジン単体車・水素エンジン車の全てに投資をしていくように見えるが、エンジン単体車とBEVについては、他の自動車会社と企業連合を組んで、その中で分担する可能性も感じられる。また、海外の自動車メーカをみると、BEVに投資を集中する企業の中には、ある程度、中国等にエンジン開発をまかせる気配も感じられる。HEVの性能の半分は、エンジン性能で決まるからでもあろう。
以前も書いたが、世界全体でみると、10年後あたりまでにBEVの販売台数は頭打ちになるのではないか、と考えている。北欧の一つの国でBEVが急増しているのは、特殊な理由が2つ以上重なっているから、と考えている。(ただし、BEV頭打ちが欧州全体に起きるかどうかは、今後の数年間で北欧の数か国のBEV販売台数の推移、でわかるかもしれない。人生を完全燃焼する方法のところで記した「海津城の煙」がでるかどうかの確認、である。)10年後以降も、エンジンの熱効率・燃費があがっていけば、依然としてHEV・PHEVが増えるとともに、FCVよりも低炭素燃料のエンジン(か、そのエンジンのHEV)も増えるという私の考えは、2年前も今も変わっていない。「BEVの価格・実質的な航続距離・個体差・資源枯渇・エネルギー供給場所・LCA問題等の全てがHEVと同等になる時期は2050年以降」という私の予測を変えさせる新たな電池技術と感じさせるものは未だにないからである。何を買うか決めるのは、価格・信頼性・LCAや資源枯渇を含めた環境問題等を意識している多様なユーザーだからでもある。
自動車産業は、他の多くの産業に比べて非常に大きく、その中でエンジンに関わる仕事をしてきた人も非常に多い。なので、少なくとも今後の10年以上は、まだまだ、エンジン技術者はかなり必要とされる、と思うのだ。
■「殻」からの脱皮(2022年2月13日)
つぶやき・ささやきの冒頭で記したように、5億年前の最初のカンブリア紀では、眼の獲得によって情報過多になり、それに怯えたのか、甲殻類という閉鎖的な生き物が増えたが、その後、哺乳類と鳥類が誕生、繁栄して、海から陸・空へと世界は広がった。画像素子という人工の眼を獲得した人類は、現代のカンブリア紀の中で再び情報過多になり、インターネットの「殻」に留まり、短距離の移動に合うBEVという「殻」で、限定された地域に閉じこもるのだろうか。いや、5億年前、私達は空にまで世界を広げたことを思い出そう。数十年後は、新たな動力機構と半導体や人工知能技術を駆使した「宇宙への本格的な進出の時代」にできるはずだと思っている。土星・木星で資源採掘しながら、携帯電話のラインで家族と話をする時代が来ると思うのだ。現在のIoT技術は、まずは工場・家庭等にあるものの遠隔操作・管理の為、だが、その先には宇宙がある、と私は考えている。
昨今、地球と月・火星間で繰り返し使える「安価なロケット」の確立が進みつつあるが、以前として、何十年も前の化学反応(定常での亜音速燃焼)方式を用いている。太陽系を闊歩するためには、もう一段階(一桁)飛躍した推進力(素粒子のエンジン)が必要だと思うのだ。
「脱炭素による維持(sustainability)」と「宇宙への本格的な進出(leap)」は、三国志の中の「蜀の復興」と「魏の新たな挑戦」の旗印を連想させる。両者を確実にできるかどうかが、人類に問われているような気がしてならないのだ。
■電話と車の普及の相関関係(2022年2月15日)
50年くらい前だったか、各家庭に電話が普及した。その後、携帯電話が普及し始めた頃のことである。ある学会で電子通信技術について発表している自動車会社の人に、重鎮の先生が「携帯電話が普及すると、会わずに済むので、自動車が減るのではないか?」と問う場面に出会ったことがある。その人は返事に困っていたが、私の頭に思い浮かんだ答は簡単だった。「携帯電話で話すと、更に車で多くの人に会いたくなる」である。その先生もその答が頭の中にあったのでわざと質問したのだろう。若い研究者の見識を試したのである。実際、携帯電話の普及と平行して、その後も今でも、自動車は増え続けている。
半導体や画像素子が不足するほどまで増え、インターネット利用が拡大しても、自動車は減っていない。是非はさておき、私達は大きな脳を持ち、その中の情報で直ぐに動く本能を持つ動物だからである。
数十年前、「本能の冷却材」に関する理論的な論文・解説記事・本(生命のエンジン、Springer-Japan、2005)等を書いたが、本能を消し去ることは論理的・原理的に不可能だと記した。本能をゼロにするということは、生命を消し去ることに等しいからでもある。
■ 貨物電車の記事(2022年2月23日)
このつぶやき・ささやきに、昨年11月7日から9日、新幹線の旅客減少対策とCO2低減策について書いた。「トラックと電車のハイブリッド」が、2030年までのCO2排出量低減に即効性があるだろう、と記した件である。
3日前に、小林拓矢さんが書かれた
鉄道貨物の「コンテナ」はなぜ普及したのか? 知られざる実力と可能性とは | Merkmal (merkmal-biz.jp)
がネット上にUPされた。今後、鉄道貨物が見直され、広がるのではないか、という記事である。
■Professorの「卒論・修論・学術論文執筆と学会発表の基本的重要事項」に追記(2022年3月4日)
そろそろ、また、研究室配属の時期である。卒論を始める人のために、Professorの「卒論・修論・学術論文執筆と学会発表の基本的重要事項」に、緑色で追記した。研究室配属直後から役に立つ可能性があり、また、サークル活動や就活時のコミュニケーション能力向上の基本事項でもある。
■イオンエンジン?(2022年3月6日)
時々、イオンエンジンに興味がある、という気概のある若者に合うことがある。その時、「私は、イオンエンジンはエンジンというよりも姿勢制御装置と考えている。」と答えてきている。宇宙用エンジンと呼ぶには、地上から離陸し、そのまま、宇宙を闊歩できるだけのパワーがあるべきだ、と考えてきているからである。
■博士進学の意義(2022年3月7日)
15年程前まで私は、博士課程への進学を積極的には推奨してこなかった。日本では、博士課程への進学を勧めると、狭い範囲の考え方になりがちなので、学生にとってよいかどうか?、と思ってきたからだ。私自身、修士課程を修了して就職した後、論文博士を取得してきている。
ただ、ある時から、あることがきっかけで、「大きな挑戦的課題」や「社会や人類の未来に大きく貢献する可能性がある課題」をやるならば博士まで行った方がよい、という考えに変わった。企業では未知への挑戦がやりにくくなってきていること、昔よりも日本の大学に外部資金が投入されていること、日本が独自性の高い技術を出さねばならない時期にきていること、M1では授業が半年程度あり、M2になると就活でかなりの時間が取られることを考えると、修士課程で研究ができる時間は1年程度しかない事、等が理由である。もちろん、博士課程に進む前に、ある程度の成果や見通しが得られていれば、だが。
なお、博士課程でやった挑戦的な大きな課題で素晴らしい研究成果が出れば、一生、それを続けた方がよいことも多々あるだろう。だが、必ずしもそうばかりとは言えない。博士号を取得しても、それでその若者が完成することは多くはないし、博士終了後の人生は長く、博士号取得後にも大きな成果を出すことが重要だからである。博士号を取得すればその後の人生が約束されるわけでもなく、要は博士課程で、先を見通す力、選球眼、成功体験による自信、仕事のやり方、等を獲得することが重要なのである。
■春の花(2022年3月21日)
今年は例年に比べて寒い日が多く、梅の開花時期が遅れた。私の自宅付近では3月に入ってからようやくロウ梅・白梅・紅梅が咲き、その直後に間髪入れずに次々とサンシュユ・早咲きの紫ツツジ等が咲き乱れ、桜も咲き始めた。なので今年はまだまだ肌寒い日が多い中、先を争うように花々が咲く印象を私に与えている。これから気温はあがっていくのだし、暖かな期間は半年以上もあるのだから、あわてて咲かなくてもよいのになあ、と思う。というのは、これだけ一気に咲かれると、写真におさめる時間が足りないし、ひとつひとつを味わう時間も減るからである。
だが、花は早く咲くことによって秋にしっかりした実を結ぶことができるのだろう、とも思う。先週、新4年生が研究室に配属され、その対応で忙しくやりとりしているのだが、それは、木々と同じで、この数週間が新4年生にとっても重要な時間(春の花を咲かせる時期)だと思うからだ。今後の一年間に研究成果の実を無理なく結べるように、と思うからである。そのための施策の一つが、10日後に社会に出ていく先輩と会う時間をつくることだ。卒業・修了する学生は半年ほど前に就活を経験し、既に大人の社会に触れて成長しており、その考え方や話を後輩が聞くことは、研究の引継ぎをするのと同じくらい大きな意味があるからである。卒業研究をやることの社会的意義・目的・狙いを早く知り、先生と相談していけば、その先の成果は自然と湧き出てくると言える。
今、学生が咲かせる「春の花」というのは「その後に実を結ばせようという決意」のことなのである。
■研究をやり始めてしばらくしたときに見落としがちな重要事項(2022年3月21日)
成功すれば大きな成果になる「挑戦的研究課題」を初めてからしばらく経つと、この研究は直ぐには完成しない、と感じる場合がままある。このとき、多くの人は、まだまだ多大な努力が必要、と感じて、意欲が下がるかもしれない。ただ、直ぐに完成するようでは、その後にやるべきことがなくなる、と考えられれば意欲は下がらない。直ぐに完成する課題なら、既に誰かがやっている、と考えれば気持ちがぶれない。そのような思いで粘り強くつづけていると、もちろん、急に、完成に近づくときもある。その時の気分は最高である。
10年程前、こんなことを話したら、「先生は、しっかりと安定したポジション(大学教員)にいるからそんなことが言えるんだ」と反論した学生がいた。でもそんなことはない。私の定年までの年数の何倍も長い期間が学生達にはあるからである。
新学期になると、2年生の基礎実験のガイダンスがある。その際きまって話すことがある。実験項目の一つである「熱伝導」についてだ。この実験で熱伝導率を求めるためには、何時間もの温度分布計測が必要になるので、多くの人は「熱伝導率を出すだけなのに、なんでこんなに時間がかかるのか」と思って意欲減退するだろう。だが、「こんなに長い時間かかるのだから、一瞬で計測できる方法を見つけたら世の中に大きな貢献ができる」と考え、ライフワークとなるテーマを得たと思えば、やる気もでてくる。なお、実際に、一瞬で熱伝導率を計測する方法を研究し続け、50歳を過ぎてから実用化した人が私の知人にいるのだ。それは、エンジン・生命・食物等の多くの分野に貢献しているはずである。
考え方次第で人生は大きく変わる、ということである。
■直江兼続の「愛」の旗印に学ぶの補足(2022年3月22日)
「愛を旗印にあげてきたと感じられる企業が、この50年程の間にいくつもあった」と書いた。(1月16日のつぶやき・ささやき)最近、この旗印が社会の中で薄れてきていると、私が感じることも記した。例えばゲームでは「愛」よりも「競争」が主題になっているものが結構あると感じるからだ。何故、この旗印が薄れてくるのだろうか。
第二次世界大戦を経験した最後の世代は現在90歳くらいで、この世代の方々は「愛」の必要性を強く実感・体感しているはずだと私は思う。50年前は40歳で企業の中核である。なので、その頃の企業活動の根幹には自然と「愛を育む」という意識が置かれたのではないか。私を含めて、戦争を知らない世代は、この意識がどうしても薄れてしまうのではないかと思うのである。
こんなことを考えていたらふと、インターネット上にはごく最近の情報ばかりがあふれていることに思いがいたった。50年以上前の歴史的な情報は少ないか、検出しにくいのではないか。これでは、先人達のVISIONが伝わりにくくなるのも当然かもしれない。インターネット上に、数十年以上前の情報をどのように掲載するか、が問われているのではないだろうか。
■大賀 典雄(2022年3月23日)
10年以上前、テレビをみていたら、たまたま、大賀典雄氏の経歴紹介番組に出会った。まずはバリトン歌手になったが、子供の頃から電子回路について自学していたこともあってSONYに中途入社し、カセットテープを凌駕する「澄んだ音質の世界初CDプレイヤー」の事業化に貢献し、その後、SONYの社長になった人である。歌手と電子技術者の視点から、CD-WALKMANの性能・魅力向上に貢献したのだろう。それが多くの人に「愛」という言葉であふれる音楽を届けたのだから、社長になるのは自然な結末だと、冷静な気持ちでみていた。だが、話はそこで終わらず、直後にでてきた映像に釘付けになったのである。社長になってからジェット機の操縦資格を取得して、社業と演奏の海外出張時に小型ジェット機を操縦して出かけたのである。大賀さんがジェット機のコックピットに座り、ゆっくりと操縦桿を引いて離陸していく姿を目にした時、かつて経験したことがない衝撃で圧倒された。のけ反らされた。歌手とエンジニアを両立して社長になるところまでは、3つの顔を持つソニーらしい人の話だなあと思っただけだった。だが、更に自分でジェット機を操縦したところで、顔が4つになり、それで海外演奏と社業出張業務までくると、人間の範疇を超えていると感じたからである。
民間大型航空機のパイロットを目指す若人もいるが、こんな生き方がある事も知っておいた方が良いと思う。
CD-WALKMANを世界中に広め、得た利益は膨大なものだったであろう。その事業に貢献した社長が、社業出張と個人的?な海外演奏のために、社用ビジネスジェットを一機買う。これは、更にその会社と社会に大きな貢献がなされるのであれば、当然、許されることだと思う。根幹には常に「音楽の生演奏と音楽プレイヤーで愛を広める」という信念があったであろうからだ。
民間大型航空機の飛行経路とタイムスケジュールはかなり限定されているが、社用小型ジェット機を自分で操縦なら、ある程度の自由度があるだろう。その飛行中に見る世界のすばらしさは想像するにあまりある。北欧のオーロラの上を飽きるまで何度も周回したかもしれない。ハリケーンにギリギリまで近づいてみたかもしれない。可能な限り高度を上げ、宇宙に近い地点から、蒼い地球やはるか彼方の星々の瞬きを垣間見たのかもしれない。小型機なので、目的地までのいろいろな都市に降りて、カセットテープすら持たない様々な人に出会い、様々な街を見たかもしれない。それらで得た感動・感情は、大賀さんの歌声に更なる深みをも加え、しかも、大賀さんが降りた飛行場近くを含め、世界の隅々までCDーWALKMANを届ける原動力となり、多くの人の心をいやしたであろう。
これは特に、私の所属する学科・専攻の学生に伝えておきたいことである。その多くが機械・航空関係の仕事を目指しているからだけではない。民間大型旅客機パイロットよりも自由に空を飛べるからだけでもない。この大賀氏を引き入れたSONYの創始者のひとり、井深大氏は早稲田出身だからである。
イーロンマスクよりもはるか以前に、”地上と空と芸術で人生を完全燃焼させた日本人”がいたのである。私は大賀さんの存在を知って、自分が信じる道に進むための勇気とエネルギーを得た。人間の可能性には限りがないかもしれない、と感じさせてくれたからである。
若い頃にたくさんやろうとすれば、アブハチ取らずになるが、私も45歳を超えたあたりからは、究極エンジンの研究者、生命情報医科学の研究者、量子統計流体物理学者、大学教員という4つの顔を表に出して歩いて行こう、と思ってきたのである。大学教員とは、20年後に4つの顔を持ちうる若者の素地をつくる役目である。20年後の世界に合致した「新たな」4つの顔である。
■永対面禁止令(2022年3月26日)
山岡荘八著の「徳川家康」全26巻は、家康の生母「おだい」が、家康を身ごもった際の激しい祈りで始まることを書いた。(1月16日)この歴史小説の最後は何で締めくくられているのか。徳川家康が、六男の忠輝に出した「永対面禁止令」である。これは、勘当、とは意味が違う。親子の間の関係にとどまらないからである。忠輝と伊達政宗の親密な関係が、幕府と異なる新たな勢力を生み、日本を2つに分断する危険性を意識して、家康が出した「つらい」政治的判断だと感じた。小説ではあるが、この禁止令が出る前の家康と忠輝の具体的なやりとりや経緯も書かれてあるので、まじかに感じられる。前向きな若者の姿勢は否定できない部分はあるものの、事前に戦争をさける知恵として考え出されたものであり、深く記憶に残った。歴史小説の意味は大きい。
東西・南北に分断した国は現在でもあまたあるが、この禁止令によって、日本はいまだにひとつの国であり続けているのかもしれない。それが日本の経済力を生み、しかも、経済力が世界を一つにしていく礎、という考え方をも加速したと感じるのだ。
家康にとどまらず、他にも、勇気を与えてくれる先輩が日本にいたことも知った。長い長い26巻を読み終えた時、争いをなくしたい、という山岡荘八の強い思いも感じたのである。その思いは実際、この長い小説のあとがきに記されている。この小説の著者が山岡荘八であることは事実なのだが、荘八にこれだけ長い小説を書かせたのは、様々な日本人の生きざまの歴史なのだとも感じたのだった。
日本人の先輩方に感謝し、その恩は、次世代に返すという思いでありたい。今日は、理工学術院の卒業式・修了式なので、上記を私から贈る言葉とする。
■ EUがBEVにシフトしようとする多様な理由(2022年3月27日)
2020年12月初旬あたりから、私の研究室のHPに様々なことを書いてきた。大手自動車会社トップの発言に先立って「エンジンの需要は今後も大きい」等を書いて始めたが、逆になかなか書けないこと(書きにくいこと)も多い。研究室内では話していても、HPに書くとなるとかなりの制限がかかる。ただし、それは、時期がくれば書けるものもある。
EUが、風力発電やBEV等のCO2ゼロに向かう理由は多々あるだろう。もちろん、気象変動問題への強い関心、オランダは古くから風車を利用してきたこと、風力発電技術の進歩とコスト低減化、地震が少ないので原子力を利用しやすいこと、ディーゼルエンジンを重視し、その分、HEV化が遅れがちで一気にBEV化にシフトせざるを得ないと考えやすいこと、等である。
ただ、もうひとつの理由・背景があると考えてきた。それは、日本と同じで、エネルギーの外部依存部分が大きいことである。BEVに向かうのは、フランスは原子力、それ以外のいくつかの国は風力発電増強によるエネルギーの自立を数十年前から意識し、電気を軸にした生活に更にシフトしようとしているからだろう、と考えてきたのである。
報道でみる限り、エネルギーの自立はこのひと月の間に、決別という意味で加速する方向になってしまっている。2年前にこのことを書くと、決別の方向に進みそうな気がして書きたくなかったのだ。平和であって欲しい。
■PCR検査(2022年3月28日)
新コロナウイルスが出現してから、PCR検査、という言葉が広がり、多くの人が知るところとなった。ただ、私は、PCR検査という表現はどうも適切とは思っていない。私の研究室で、20年くらい前から保有してきたPCR装置による研究の経験から感じることである。PCRとは、DNA・RNAを増殖させる原理でしかなく、検出はその後、別の方法で行うはずだからである。DNA・RNAは小さいので、PCRで増殖させてからでないと検出しにくいため、検出より前の段階で増殖させるのである。PCRはPolymeraseChainReactionの略である。なので「PCR検査」を直訳すると「酵素増殖検査」なので、「酵素を増殖させられるかどうかの検査」のようでしっくりこない。(なお、ウイルスも基本的にはDNAやRNAである。)
なお、20年程前に購入したPCR装置による研究テーマは、表向きはDNAComputingだったのだが、本音は別の目的だった。特定のDNAを増殖させるという生命の根幹反応を人工的に行えるので、生命の起源について何かわかるかもしれないと考えていじくってみたのだった。ただ、この方法でDNAは増殖できるが、酵素は増えないので、その点で本質的に生命とは言えないことがわかった。生命は、DNAと酵素の両方が常に増殖するもの、と定義できるからだ。しかしその経験がもとになって、病気の事前予知の理論式(Prognostic medicine, Prognostic medication)を提示することができたのであった。
■ひとつの研究で表裏2つの目的(2022年3月28日)
先にも述べたように、PCR装置を利用して、表向きは「DNA Computer研究」をやってきたが、いくつかの理由がある。まず、従来型のComputerでは計算速度がまだまだ不足していて、燃焼や乱流現象を解くのに一週間以上かかる場合もあったので、新たな次元のComputerが必要だなあ、と常々思い、ナノコンピュータのジャンルを試みてみるか、と思ったことが理由の一つである。また、もうひとつは「生命起源の研究」だった。生命起源について何か理解が深まれば、原始的な微生物によってCO2吸収できないか、というのも理由の一つである。CO2吸収するためには、できるだけ、単純な生命の方が扱いやすいと考えたからだ。「生命起源の研究」では、工学系学科の学生が興味を持ってもらえないかもしれない、と考えたからでもある。
このように、ひとつの研究で2つ以上の目的・狙いも持って行ってきたものは他にもある。エンジン燃焼流体のシミュレーションの第一段階の目的は、エンジンの試作・性能実験費用低減とエンジンの開発期間短縮、だったが、第二段階は、そのシミュレーターで独創的なエンジンコンセプトを見出して、途中からエンジン試作・実験に明け暮れるためである。若い頃にシミュレーションをやると、一生、その分野で研究する人が多いのだが、それでは満足できなかった。
2009年頃、多重衝突パルス噴流圧縮原理を考案したとき、最初は燃焼エンジン実験だったが、素粒子のエンジン(放射線を出さない弱原子力エンジン)もできるだけ早く、平行してやろうと考えて始めた。なので、2016年8月にNHKが、私の研究室の燃焼エンジンをニュースで紹介してくださった直後の9月頃に、凝縮系核反応の国際講演会で、その準備段階の研究発表した時、驚かれた方もいる。2010年あたりから既に、原子核の分裂現象の理論の論文や発表もしてきて、素粒子のエンジンの具体的構成も提示していたからである。
大病の事前予知理論の研究では、双子の課題として、経済的恐慌・不況の事前予知も平行して進めてきている。個人的な大病と経済社会の恐慌は、数学的に相似だという考えである。経済社会や企業もヒトの集合体であるので、ひとつの生命体であり、生命の個体の原理と同じ基本原理で動作するだろう、と考えたからだ。企業は人なり、とも言われる。また、病歴データがまだ少なく、しかもその扱いが倫理的に難しいのに対して、経済データは公開されたものばかりなので、理論の検証に都合が良いからでもある。
目的がひとつしかない状態で初めたが、途中から2つめの狙いに気が付いたものもある。液体燃料の分裂・微粒化の理論モデルは、途中から、生命細胞・生命分子・素粒子の分裂現象をも記述できるのではないか、と思って、適用範囲を広げていった。
エンジン内流動のシミュレーションをやって15年程経過したとき、ふと、エンジン吸気行程内流動パターンがヒトの脳の皺構造に似ていることに気が付き、多細胞生命の形態形成メカニズムの研究(TOPページに図を掲載)も始めた。
なので、ある時、恩師の一人に「内藤君は、どっちに行こうとするのかわからない。つかみどころがない。」と言われたことがある。適切な評価だなあ、と思った。
ただし、2つ以上の目的の順序や軽重は意識してやるべきだ。
■石の上にも10年(2022年3月31日)
「石の上にも3年」という言葉の私の解釈は、「一度やり始めたら、最低3年はやった方が良い」である。つまり、最長でどのくらいの年月継続すべきかは別に考えないとならない。私が若い頃、お会いした研究者の一人は「一つの研究課題・ジャンルを10年位やると、新たな課題・ジャンルに移る研究者が、そこそこいる。」と言われていたことがある。
この考え方を私は記憶はしてきたが、意識して生きてきたわけではない。ただ、振り返ってみると、企業に入っった1987年から1999年あたりまではエンジン内燃焼流動のモデリングとシミュレーション、そのあたりから2010年くらいまでは基礎生命科学研究、2011年あたりから現在までは大幅断熱+低騒音型高圧縮比エンジン、である。2つ以上が重なる時期もあるが、大体、10年スパンだ。(あえて書くが、10年くらいで無理に変えるべきではないと思う。)
数年前からは凝縮系核反応研究にも本腰が入り始めており、ごく最近は大病事前予知・人工天才脳にも力を始めた。
■春の花の次にくるもの(2022年4月2日)
この数年、気象変動がひどくなったせいか、風の強い日が多くなった印象がある。なので早々に花も散り始めたが、萌えるような新緑が放つ光が目に飛び込むようになってきた。風が強いほど、花は早く散り、それによって早く緑の葉が光合成をはじめ、秋の実や紅葉をより豊かにするだろうか。
私の研究室の新B4の学生達も、花を咲かせる時期(秋に実を結ばせるという決意をする時)を脱し、新緑の光を放つ「まなこ」に変わりつつある。具体的な研究課題を始めるところである。
新B4学生に吹く風、とは何だろう。先輩や先生からの話、なのかもしれない。
■山形の春を東京で探す(2022年4月3日)
私の著書「生命のエンジン」にもかなり記したが、2000年に山形に移住して、そこで目にした自然は素晴らしかった。東京よりも生き生きと花開く桜は、当然、長い期間咲く。その直後に咲く白つつじの白さは、蔵王や朝日連峰を覆う雪のように澄んでいた。吾妻連峰の新緑が日に日に、下から徐々に上がっていく様は、燃え(萌え)上がるようだった。
この感動は住んでみていないとなかなか、体と脳にしみこんでこない。2000年に米沢に移住し、毎日の自然の変化を見ていた時は得られたが、2005年に東京に帰ってから数年間、毎週末に米沢に戻っていたものの、それでは全くといってよいほど、感じられなかったからである。
なので、東京に帰ってからも、その鮮烈な花々や新緑を無意識に求め、ビルの谷間や路地裏に見出した草木に山形の光を重ねて思い出してきたように思う。全てを忘れられる一瞬であり、それが、新たなアイデアを生み出す源泉ともなっているはずだ。「アイデアを出す方法」で書いた「自然への浸り方」は、このようなことでもある。
■電子化できていないデジタルカメラ(2022年4月17日)
私は、子供の頃からカメラが好きで、当然、最初はフィルムカメラを使ってきたが、2000年頃からコンデジも併用し、10年位前からはデジカメだけになった。なのでカメラは電子化した、と考えてきたのだが、ふと、その認識が間違いであることに気が付いた。
デジカメになった現在も自分が、50年以上前の中古のレンズばかり使っていることに気が付いたのである。レンズは本質的に変化しておらず、デジタル化していない。レンズは、機械的な加工で製造されるからだ。
いうまでもなく、カメラはレンズと撮像機の2つから構成されている。なので、いまだに、半分(撮像機)しか電子化(デジタル化)できていないのだ。「フィルム」が「電子的な画像素子+SDカード」になっただけなので、ちょっと、オーバーな表現をすると、カメラの撮像機は基本的にほとんど変わっていないとも言える。にもかかわらず、多くの人が、カメラは電子化し終った、と錯覚しているのではないだろうか。
車に例えて言えば、半分が電動化した「ハイブリッドエンジン」の状態のままで、BEVには進んでいないと言えるだろう。カメラのエンジンは、光を吸引するレンズだからだ。
そこで今度は、「レンズは必須か」と思った。最近のレンズの中には、10万円をゆうに超え、f値が小さくなって重くなり、巨大なものが増えてきているのでとても買う気にならない。電子的な画像素子は、フィルムに比べて微弱な光でも撮影できるのに何故、f値を小さくする必要があるのか、と不思議に思う。ユーザーの購買意欲に逆行しているようにも思える。なので、レンズを無くすことが、真のデジタル化(電子化)だろうと思う昨今である。ただし、進化の過程で生命が獲得したのは「レンズを持つ眼」であることを考えると、そう簡単にこれをなくすことはできないのではないか。
BEVに関する面白い記事を以下に紹介しておく。
トヨタの新戦略発表に思う「日本は教条的なEVシフトへの疑問を世界に問え」 | 長内 厚のエレキの深層 | ダイヤモンド・オンライン (diamond.jp)
以前、急ぐべき時なのか、慌ててはいけない時なのか、の見極めの重要性について書いた。(2021年3月3日, 2021年7月31日)カメラの分野でこのことの大切さを感じた例があるので、以下に記す。LEICAのデジカメの性能は、日本のデジカメの性能に比べると劣る部分を感じてきている。その一例はオートフォーカスの速さだ。ただし、写真を見たときに得られる感動という点でみると、LEICAに並ぶものはないと思っている。カメラの機能として最も重要な事項をじっくりあわてず明確にしながら、商品を開発・提供しているように感じるのだ。オートフォーカスの速度が重要なのは、静止画を撮るためのカメラよりも、動画撮影機、のほうだろう。
■3月の梅とサンシュユ・4月の桜とツツジ・5月初旬のハナミズキの次(2022年5月22日)
4月後半から連休中も仕事が増え、しばらく、このHPへの追記ができなかったが、また、少しづつ再開できそうになってきた。
5月半ばから街中で見かける花はバラである。特に、白い薔薇の中に美しい形のものをときどきみかける。バラにも多様性があるが、それらもそろそろ満開時期を過ぎた。通勤時の6月の楽しみは、紫陽花と朝顔(ペチュニア)である。
■定常と非定常(2022年7月1日)
熱流体力学では、扱う現象が「定常か非定常か」を明確にしてから分析する。「定常」とは、「空間内の固定した場所で、物理量(温度、流速、圧力、密度等)の時間変化がない場合」と定義することが多い。「非定常」は当然、物理量の時間変化がある場合である。
40年ほど前、私が学生だった頃、ふと、「私達の心臓は何故、脈動流型(非定常流型)なのか?何故、定常流型ではないのか?」と思ったことがある。「人工心臓は、レシプロエンジンのような脈動流型にせず、ジェットエンジンのような定常流型の方が良いのではないか?」といったことも思いついた。「脈動流型の人工心臓では、バルブが閉じる際の衝撃で壊れやすく、また、血球をつぶしてしまうのではないか? 定常流型であれば衝撃はないので、耐久性がある」と考えたからである。一方、脈動流型であれば、よどみ領域を減らせるので、生命維持に有利、とも思った。「脈動流型のこの利点を選ぶことができたのは、私達、多細胞生命が、固いバルブではなく、70%が水で構成される柔らかなバルブを用いているからだろう。そのしなやかなバルブが閉まる際の衝撃は小さいので、ある程度の耐久性があり、血球をつぶさなくてすむからだ。」という考えにも行きついた。生命が進化の過程で、何故、脈動流型を選んだのか、についてこんなことを考えるのは楽しく、興奮した。
なので、「定常流型の人工心臓をつくってみたい」と思うまでになっていたところ、海外でその研究が始まったという新聞記事を目にした。そこで、当時、脈動流型の人工心臓を研究していた先生のところに行って、「卒論でやってみたいのですが」と話したことがある。だがその先生は、「二番手をやるのは気が進まないなあ」と言われた。それを聞いて瞬時に気が付いたのは、定常流型にするというアイデア1つだけでは、この研究開発が直ぐに息詰まるかもしれないということだった。定常流型人工心臓の研究開発に突き進むためには、「定常流の利用だけでなく、それに加えて少なくとも、柔らかなスクリューの材料、スクリューと管壁の間のつまりを無くす方策、他者との競争に勝つための資金力、人材(チーム)を加えた5つのアイデアや原動力」が必要だと考えたからである。しかも、もし、定常流型の人工心臓が実用化できたとしても、血栓等で心臓が弱って交換することになる人は、人口全体の一部でしかないし、機械的な人工心臓で置き換えるよりも、化学的・薬学的な方法の方が有効性が高いのではないか、と思ったからでもある。なので、無理にその課題に進むことはしなかった。2021年3月11日、このHPに「突き進む際の6つの根拠」を書いたが、「大きな課題に挑戦し、実用化するには、5つ以上のアイデアや原動力が必要だろう」と思ってきたのは、このようなやりとりの経験があったからである。一人で考えるだけでなく、時々、深みのある他者と議論することの意味は大きい。
ただ、その後、更に、定常か非定常か、という視点で、世の中をみることが増えた。就職後の仕事として、レシプロエンジン(非定常流型)とジェットエンジン(定常流型)のいずれを選択するか、という分岐点にたった。そもそも、航空宇宙用エンジンには興味があったが、結局、まずはレシプロエンジンを選んだ。理由はいくつもある。その一つは、自動車は身近な存在であるとともに、多くの人が利用しているので、医療や航空宇宙産業に比べて格段に産業規模が大きく、5年から10年程度で確実にモデルチェンジし、研究開発費も潤沢で、「短期的な社会貢献」と「長期的視点での研究」の両者をやりやすいのではないかと考えたことである。また、以前も書いたが、「心臓が何故、脈動流型(非定常流型)なのか」、知りたかったからでもある。もうひとつの理由(おぼろげな思い)は、まず、脈動型エンジンの研究開発に関わり、それで得たことを土台として、新たな脈動流型の航空宇宙用エンジンをつくってみたい、ということだった。実際、企業でレシプロエンジンの研究開発に13年程、関わった後、心臓が脈動流型である理由説明を提示でき(注701)、しかも、脈動流型の航空宇宙用エンジンのアイデア(Fugine、Fusine)も出て、それらの研究に没頭する毎日になっている。(注701: このHPの冒頭のページに掲載した図からわかるように、レシプロエンジン内の入り組んだ流動場と脳の凹凸構造は非常に良く似ている。このような凹凸構造ができるのは、レシプロエンジンも心臓も脈動流型だからだ。また、レシプロエンジン内の流動場は、母体内の胎児の手・足・頭等の凹凸形状の配置に相似であることもわかってきている。つまり、脈動流を選んだことによって、私達は複雑な凹凸形状を持つことが可能になり、その凹凸部分は、ものを掴んだり、歩いたりするような様々な機能を生む、という重要な意味があるのだ。定常流型では複雑な凹凸構造は生成できないと考えられる。)
なので、学生時代、定常流型の人工心臓に突き進まずに良かった、と考えている。
なお、より多くの視点を持つことは意味がある。私は学生時代、力学、物理学、数学の本を斜め読みしているうちに、「対称か非対称か」、「保存か非保存か」、「線形か非線形か」、「可逆か非可逆か」等の視点も得た。基礎は重要である。
■斜め読み(2022年7月7日)
私は学生時代に、授業とは関係ない本をときどき買って、軽く眺めてきた。軽く眺める、というのは、7月1日に記した最後の「斜め読み」のことである。購入した本は、もちろん、最初から最後まで通して読む場合もあるし、辞書的に使う本もある。ただ、それらとは違うのが、「斜め読み」である。このような「斜め読み」する本を買う時の判断基準は、自分の視野を少し広げるため、将来的に使うそうな予感するため、一部でも非常に印象に残る部分があるため、深みがある部分がありそうなだから、など、様々である。
このように考えながら本屋で時間を使って探すことは、本を買って、そこに記載されたことを、後で役に立たせるためだけではない。書いてあるものの中に、今後の自分にとって価値を生み出すものを探す訓練にもなる。
なので、本に限らない。研究室に配属された後、卒論・修論・博士論文・学術論文を読む際、それらは大量にある。なので、斜め読みをせざるを得ないこともあるわけだが、それで、その中の重要ポイントをとらえられるかどうか、が、その後の成果に大きな影響を与えることになる。
■自動車販売店が水素供給スタンドになる可能性(2022年8月4日)
HPの最初のページに、「水素エンジンが増えると、自動車販売店が水素供給スタンドになる可能性がある」と記しました。先日、ある若い人から、「何故、そう考えるのか」という質問があったので、私の先読みのひとつを少し記しておきます。
この20年間、N社はBEVにも力を入れながら、平行して、自動車販売店に充電スタンドを設置してきました。最初のうちはただで充電、だったと思います。この事例からみると、水素スタンドが一般に普及するまで、T社は販売店に水素スタンドを設置するかもしれない、と推測できるということです。T社は水素エンジンの実用化にもかなり力を入れてきており、しかも、既にFCVも売っているので、水素エンジン車とFCVを増やしたいはずだからです。そのために、それらを買ったお客様が、自動車販売店で水素供給スタンドを利用できるようにすることはプラスだとも思いますし、T社はそれをやる資金力も有していると思います。また、都心であらたに水素供給の為の土地を探すのは難しいけれども、車のネット販売が増えて生産工場から直接、ユーザーに車を届けられるようになると、自動車販売店に車を置くことも減るので、空いた場所を有効利用できるからです。ただし、後のことを考えると、T社以外の組織も巻き込んで、水素スタンドの強化をした方がユーザーにとっても便利なので、自動車販売店だけにとどまらないように志向しているとも思っています。
また、車のネット購入が増えると、ディーラーの販売員の仕事が減るので、代わりの仕事をつくる必要もあるからです。
■聞き耳をたてる(2022年8月4日)
HPの「人生を完全燃焼させる方法」に、「聞き耳をたてる」を追記しました。
続く