つぶやき(Tweet)2021年2月下旬

■電子化・電動化の多次元時空間理論(Spatio-temporal theory of information-power systems: 2021年2月22日PM19:41に掲載)

音楽をデジタル化したCDは1次元データだったのですぐ普及した。CDが出てから5年くらいでレコードはほぼなくなったように思う。カメラの電子化は2次元画像データなので、普及するまでにそれよりもかなりの時間がかかっている。フィルムカメラがほぼなくなるまでに10年くらいかかったように思う。次は、車の自動操縦だ。3次元空間+時間変化=4次元の画像データ(動画)を扱うことになる。音楽とデジカメの歴史を参考にして単純に線形外挿すると、20年程度はかかるかもしれない。ただし、メモリーの容量不足が問題になる。しかも、さらに注意すべきことは、時間軸が入り、自動車に搭載された人工知能は、ゆっくりと風景画像を眺めているわけにはいかないことだ。画像処理の速度がいる。なので、CPU速度も上げないといけない。しかも、この場合、不具合は許されない。音楽やカメラの故障で人は死なないが、車の自動操縦ではそうはいかないからだ。 単なる素子の技術の問題ではなく、「正確で確実な」人工知能による判断、という要素も必要だ。 なので、この視点からみると、自動操縦は30年くらい先かもしれない。2050年だ。

自動操縦技術が確立し普及するのは、上記の予想より早い可能性はある。ただ、BEVの本格的な普及はその後だろう、と考えている。 前述した4次元に、車重(質量)の次元が掛け算されて5次元になったことで、やっと力の次元が現れ、そして更に、航続距離をかけてやっとエネルギーの次元にたどり着くからだ。 6次元での事象だ。 ここでやっと、消費者も納得できる電動化がなされると考えている。 早くても40年程先になるのではないか?2060年である。 言いたいことは、重さが関係したエネルギーの問題は容易ではないということだ。6次元以上の課題かもしれないのである。 更に価格が高まるであろう固体電池の可能性がある一方で、電池が何度か息切れした歴史をみると、電池の進歩速度がこのまま続くとは限らないからでもある

歴史に学ぶことはやはり多いのかもしれない。それとも、私が年を取って頭の働きが鈍ってきて、間違った理論を提示しているのだろうか? それとも、Fugineを発展させたFusineで電池が不用になり、人類が「22世紀の新大陸(太陽系の外)」までをも自由に闊歩するのだろうか?

BEVが普及する時期を予測する線形外挿理論(The other theory on BEV potential: 2021年2月26日PM22:00に掲載)

ドイツでの滞在経験を書いたところで、消費者がBEVの価値をHEVと同等レベルに考えるのは2070年ころではないか、と記した。その試算方法は、上記のもの(多次元時空間理論)とは全く別のものであり、以下に詳細を記しておく。長期の見通しには多面的な分析が必要だからだ。

価格や充電設備の問題は補助金等で解決したとしても、電池の劣化問題が焦点(律速)になるように思われる。すでに発売されたBEVの価格をHEVの価格まで減らしたとき、それとほぼ比例して新車BEVの航続距離が減ることを考慮し、更に、電池の劣化を考慮して、まず、5年使用後の実質的な航続距離を算出する。そして、横軸に年度、縦軸に5年後の航続距離のグラフにプロットする。このいくつかの点を結んで線形外挿(直線で近似した後に外挿)すると、航続距離が600㎞、つまり、HEVの航続距離になる年度が2070年あたりなのだ。

このような線形外挿による将来予測は、30年程前にも別の問題で行ったことがある。 ある雑誌から乱流燃焼の数値シミュレーションについて解説原稿を依頼された際、 スーパーコンピュータの性能向上によって、いつ頃、燃焼現象のDNS (Direct Numerical Simulation)が可能になるかを予測し、記載した。その予想は概ね、正しかったが、ユーザーの立場から言うと、スパコンの性能向上は、線形的な進歩より少し遅かったと考えている。ベクトル化の限界が近づき、並列化も使わなければならなくなったことにより、限定された少人数のユーザーしか、使えない状態になったからである。

全固体電池のBEVは、多くのユーザーが使えるようになるのだろうか?

■庄内と秋田の風車(Windmill in Japan: 2021年2月27日AM10:25に掲載)

私は、2000年から2005年まで山形大学で仕事をさせていただいた。その間に、庄内のたちかわ町の脱炭素化の試みをされている方々とお会いする機会が何度かあった。そのあたりは、強風が吹く地域で、風力発電もされており、若干の黒字経営だったと思う。そこでお会いした方々の眼は輝き、未来に挑戦する意欲の高さとエネルギーを感じた。それから15年以上経過しているので、風車もメンテナンスかリプレースが必要な時期ではないか、と思う。そのHPを見ると今でも、リプレースしながら運営されているようなので、強風が吹き、台風の被害が少ない地域での風車は継続的にありえると思っている。山形県は比較的台風が通過しにくいところだと聞いていた。ただ、立川町のHPをみた限りでは、風車の台数は大きく増えているようにはみえない。この地域は、かなり内陸にあり、両側に山が迫ってくるところなので、海からの風が狭められて、風速があがるからかもしれない。つまり、海側に向けて設置場所を増やしても、取得できるエネルギーが十分にはならないのかもしれないのだ。これは立川町の奥にある山の上に立って庄内の風景を見たときに感じたことである。

昨今の洋上風車の話題でふと思い浮かんだのは、山形県のとなりの秋田県の八郎潟だ。そのあたりなら、庄内地区に近い強さの風を期待しやすく、遠浅の海があるかもしれないからだ。八郎潟の大きさをインターネットでみると、220平方キロメールと出ている。なお、庄内立川町の風車と風車の間隔は、写真をみると風車の高さの数倍だ。最近の風車の高さは100m程度にまで大きくなってきているので、1㎞に数台くらい可能かもしれない。 なので仮に八郎潟沿いの遠浅の海に直線的に一列に置けば、500台程度であろうか。発電能力は最大、一台あたり2000kWほどだろう。なので、全部で1000MWくらいか。もちろん、風車の騒音問題や漁業などとの兼ね合い問題などがあるので、単純試算でしかないが。

自動車が最大出力100kWのEVだとすると2万台分くらいに相当するかもしれない。この数字が大きいのか、小さいのか。日本で使用されている自動車総数を把握すれば、どの程度の供給率か徐々にわかってくる。仮に1000万台(保有台数の10分の1程度)だとすれば、0.2%である。(仮に、一日の内の風力発電可能な時間とEVを使用している時間が同じとして試算した。)もちろん、電気を使うのは自動車だけではない。なので、海がどの程度、遠浅か、も調べなければならなくなるだろうし、洋上の方が設置時やメンテナンスでコスト高になることも考えないとならないだろう。なので、欧州のような強風・遠浅の海が少ない日本で、他に良い場所が探せるのか、という話にもなってくるのである。

風車というと、「機械」を想像するかもしれないが、昨今は、その大型化が重要になっており、高さが100mともなると、機械というよりも「ビルの建設」に近いようにも感じている。八郎潟に500個の30階建てのビル?で0.2%の電力、である。浮体式は大型船建造に近い印象を持つが、まだ、不確実な部分があると思われる。風はただであっても、風車のビル群を、15年程度おきにリプレースするとなるとその費用はどうなるのだろうか? 新コロナウイルスで、当面、航空機の製造があまり増えないと思われるが、そこが大型風車の羽の製造の仕事に置き換わるのだろうか? それでもやはり、私の研究室がFugineとFusineに注力しなければならない、と私は思うのだ。まだ、検討しなければならない事項はあるものの、原理的に、価格向上等のマイナス面が少なく、確実に効率やパワーがあがる方策だからである。

■縁(Fate:2021年2月28日)

上記のいくつかの検討を読んでいただくと、「私がやるべきだと考えていることがブレない理由」を理解いただけたと思う。

私は日産自動車(株)で、2000年3月まで13年間、仕事をさせていただいたが、その後半、夏休みは毎年、家族で越後湯沢で過ごすようになった。八海山からの水が澄んでいて、朝、その水で本物のコシヒカリを炊くのだが、その炊飯の香りで目が覚めるくらい、おいしいコメだったことも理由のひとつである。そんな経験もあって、都会での生活に疑問を感じはじめた頃、米沢にある山形大学工学部からお誘いがあり、米沢で得られる自由度の高さを知ったとき、(家内にも相談してから)即座に移住を決意した。「都会の大学もありえるのに」と心配してくださった方もいたが。

そこで得たものを、ここで書こうとすれば、何十ページにもなってしまうほど、大きかった。(「生命のエンジン」に記載。)その中の極々一部が、上記の風車の試算にもつながっている。なので、仕事は、各自がまずは選ぶべきだが、一旦、始まったら、縁だと思ってやった方が良いことが多いだろう。石の上にも三年という言葉もある。どのような仕事をしても、プラスマイナス両方あるからだ。例えば、米沢の道は、東京とは違って、様々な曲率半径のカーブの道があり、信号も少ないので、車両の特性を把握しやすかった。テストコースでの経験よりも価値があると思ったくらいである。一方で、最新の情報は入りにくい。また、あるとき、米沢から車で30分程度の丘を走っていたら、突然、小さいものではあったけれども、飛行場に出くわした。セスナで滑空を楽しんでいる方々がいた。都会では自宅から30分程度のところで、自家用飛行機を楽しむことは無理だろう。ただし、都会のように「何でもすぐに買える」とはならない。

大事なことは、プラス面を吸収できるか、マイナス面を気にしないですむか、といったことではないだろうか。

運鈍根(2021年3月3日)

昨年、予測して記したように、「(アンモニアを含む)水素燃料での燃焼を用いた動力エネルギー生成方式に進む」という記事が増えてきている 。

今朝(2021年3月3日)の新聞の第一面に、「EV=地球に優しい、という時代は終わった」という記事が出ていた。数か月程度の短時間に、ずいぶん、大きく、左右に振れるものだ、と思っている。

価値ある情報は取り入れて素早く変更・対処すべきときはある。豊臣秀吉が、本能寺の変の直後に引き返したように、だ。だが、そうではない情報には「鈍く(にぶく)」ならないといけない。そして、徳川家康のように、各自がやるべきだと考える道を「根」性をもって、粘り強く進めないとならない。焦りすぎはいけないのである。

面白いのは、「鈍」の方が「根」性よりも上位にあり、その更に上位に「運」があることだ。「枝葉」の情報には「鈍」になって目もくれず、ができれば「幹」に集中できる。人間、幹(狙い)がはっきりして集中できれば、根性を持って粘り強く挑戦することは比較的容易で、その結果、「運」はあちらの方から自然とやってくる、という意味だろう。上杉謙信は川中島の戦いで、武田信玄という「幹」だけを追った。織田信長は桶狭間の戦いで、今川義元という「幹」だけに焦点を絞った。 織田信長が舞ったように「人生50年(現代では100年)、下天のうちをくらぶれば夢まぼろしのごとくなり」だから、「幹」以外を見ている時間はないである。

なお、先に述べた「鈍」の重要性が強調されるのは、「鋭」ばかりで、いろいろなことが気になりすぎると、集中すべきところに集中できない、という意味があると私は考えている。

私が学生のときの先生のおひとりは、講義の中で「他人の論文ばかり読んでいてはならない。読み過ぎると、その考え方・方法・課題に引きずられて、新しい研究成果がでにくいからだ。」と言われていた。このことはその後も耳に残っていて、独自性の高い仕事をしたい、と思ってきた。その後、いくつかの学会で、学術論文集のEditor等もしてきたわけだが、他人の論文の影響を受けすぎて独自性の弱い論文が、ある割合、投稿されている。これらは「探究・研究論文」というよりも「演習問題的なレポート」であり、それらは当然、acceptされにくくなるのである。

ただし、他人の論文や著書を全く、読まなければ、自分が書く論文や本の冒頭に書くべき「前例の良い点とその問題点」を書かないことにもつながるので、別の問題が起きやすくなる。

なので、鈍くなる、鋭くなる、には、程度の問題もあろう。その時々に応じて、その加減を変える必要もある。仕事にもよっても変わるだろう。

■アウトプット(2021年3月7日)

カメラがデジタル化した理由の一つは、カメラがもたらすもアウトプットを考えるとわかる。カメラは、言うまでもなく、写真というアウトプットを私達にもたらす。スチールカメラで、撮った写真を見るには、 いちいち写真屋さんにいかないとならなかった。だが、デジタル化したので、自宅のPCや携帯電話で、ただでみることができるようになった。このアウトプットのメリットが、カメラのデジタル化を後押しした大きな力のひとつだろう。自動車ではどうか? 車が私たちにもたらすべきアウトプットは「確実な移動」である。だが、少なくとも現時点では、自動車のEV化でこのアウトプットが?、なのである。 航続距離が不足がちで、劣化で更に減ることが結構あるからだ。大雪時や猛暑時の不安もある。ここにカメラと自動車の根本的な差異があると考えている。

ただし、自動操縦化は、「確実な移動」というアウトプット(目的)に、そこそこ合致している。

■劣化(2021年3月11日)

私は、1990年代(若い頃)、企業で、エンジンの熱効率向上に関する研究を主としてきた。それを加速するための重要な道具が、数値シミュレーションである。当時はまだ、圧縮性乱流や燃焼を定量的に解析できる理論や方法が不十分で、恩師とそこからつくりこんでいった。ただし、CRAY-1をはじめとしたベクトル処理型スーパーコンピュータが登場したことは幸いだった。エンジンの一サイクルの3次元非定常計算が、数日から数週間くらいでなんとか可能になったのである。

実際のエンジンの熱効率は、適切なメンテナンスを継続していれば、10年を超えてあまり変わらない。劣化があまりないのである。なので、利用し始めた時点でのエンジンの熱効率を「予測」できれば良い。ただし、エンジンを10年以上使用後の排気ガス成分がどうなるか、が気になっていた。街中で黒煙や白煙を出しながら走る古い車をときどき、見かけてきていたからである。これをシミュレーションすると考えるとかなりやっかいに感じてきた。素反応モデルの定数を理論的に決める有効な手段が十分ではなく、わずかに排出されるppmレベルのEmissions(NOx、HC、CO、Soot)は、わずかな量なので数値誤差と同じレベルになることもその理由のひとつである。なので、Emissionsを定量的に予測する数値シミュレーションモデルの構築をやっても、エンジンの研究開発に貢献しにくいだろう、という感触を持ってきた。

このような経験があったので、電池や燃料電池は、更にやっかいになると感じてきた。先に書いたように、エンジンよりも劣化が大きな問題になるだからだ。何年もの間の劣化過程の数値シミュレーション予測をやるだけの計算機速度はまだまだないし、劣化過程そのもののメカニズム・理論式がわかっていないことが多いからだ。シミュレーションは理論式があって初めて実行できるわけだが、そもそも、理論は実際の観測データがあって、それを記述するようにたてるからである。最新の電池や燃料電池では、当然、その劣化後のデータはあまりない。ジレンマである。

また、メカニズム分析そのものは一般的には重要であるが、数値シミュレーションで出た結果をうのみにはできない。例えば、計算格子の数やその生成法等によって結果が大きく変わって、実際の現象からずれることがかなりあるからだ。(なので、計算格子に依存しない数値解析方法が重要になるので、私の研究室では、数十年に渡って、この観点での研究も進めてきており、いくつの計算方法の論文もPublishしてきている。粒子法は計算格子がないので、この問題がないように思うかもしれないが、そうではなく、粒子数を増やすと計算時間が膨大になるという問題があるのである。なので、私の研究室では、反粒子法というカテゴリーに30年以上、注力しており、ある程度の成果が出ている。)

何年も先の劣化状態のデータがないのに、劣化過程をシミュレーションで予測したくなる。なので、「シミュレーションと平行して、基本原理に沿った普遍性の高い理論でエビデンスが出せるかどうか」が「予測とメカニズム分析できるかどうか」を決めることになる。

私の博士論文(1993年)の題名は、Numerical prediction・・・・・とした。モデル中の定数の大部分を繰り込み群理論等で導出したものにすることができたので、広範囲の予測が可能と考えられたからである。Simulation・・・という題名ではない。シミュレーションというと、「模擬」とか「再現」とかいうニュアンスが強いので、「先の予測」にはならないことが多いと感じてきたからでもある。

なぜ、私は若い頃、まず、エンジンのシミュレーションモデルの構築をやったのか。モデルの大筋ができた直後から、数年後の車に搭載するエンジンの性能向上検討に適用し、特許も出すなど、ある程度の貢献はできた。ただ、そのためだけに、シミュレーションモデルの構築をしたわけではない。ある程度、従来エンジンでの実験データとの比較をしてモデルの検証した後、大幅断熱等の大きな目標の具体的エンジン構成のアイデアを、先読み予測して見つけられる可能性がある、と考えたからだ。幸いなことに、その頃の青写真は、2008年頃から提示しているFugine、Fusineとなって具体化している。

動力エネルギーの具体策の先読みをするためには、そのための道具(シミュレーションモデル)が必要であると考えたわけだが、その道具のポテンシャルについても、最初に先読みしてきたのである。